宗教の分類方法として、神様が一人か、二人以上かというのがある。

 

 1人の宗教は、一神教とよばれる。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教などがそうである。ユダヤ教は、ユダヤ人の血をひくもののみの宗教(厳密にいえば、ユダヤ人の母親を持つもの)で、ユダヤ民族のみの宗教であるが、キリスト教もイスラム教も民族の垣根を越えて広く布教され、全世界的に信者がいる。

 

 2人以上の宗教は、多神教と呼ばれている。日本の神道、ヒンドゥー教など、国や民族の枠内で信仰されていることが多い。

 

以前、多神教は土着の宗教で、一神教によって淘汰される運命にある・・・といった話を読んだことがあり、そのときはそんなものかなと思ってしまった。

 

  しかし、考えてみれば、一神教か、多神教かというのは、説明の違いにすぎない。

  すなわち、人間は、太陽の力によって、農作物を育て、草を育ててそれを家畜に食べさせ、食料を得ている。水を飲み、水を植物にやり、その恵みによって、体を維持したり、食料に変えたりしている。太陽に関連する恵みを太陽の神様のおかげ、水にかんする恵みを水の神様のおかげと分けて認識するか、これらの恵みをひとりの絶対的存在である神様のおかげと一括して認識するかである。

 どちらが優れているといったことはないと思う。

 

 ただ、一神教は、独善的、排他的になってしまう傾向があり、現代の政治問題のほとんどは、この点に帰着するように思える。つまり、「自分の教えだけが正しい。(その帰結として)他は間違っている!」という主張になる傾向があるということだ。

 

 多神教の多くが、民族のなりたちなどについての数多くの神話を持っているが、一神教の起源は、少なくとも上に述べた3つの宗教についてはただ一つである。

 

 キリスト教はユダヤ教が起源であり、イスラム教は、キリスト教とその前のユダヤ教を起源とする。

 

  今年は2016年であるが、これは、イエス・キリストが生誕してから2016年たったという意味である。イエスはユダヤ人であり、ユダヤ教のなかで、新しい教えの布教を始めた。これが、キリスト教に発展する。キリスト教はユダヤ教の「世界宗教版」といえる。ユダヤ人以外にも教えを広めることに積極的になり(ただし、イエスの死後である)、ローマ帝国の国教になることによって、ヨーロッパに広まった(もともとは中東の宗教である。イスラエルのあるところがユダヤ教、すなわちキリスト教ができたところ)。ローマ国教になる時に、キリスト教の教えについての会議が行われたのだが、その中の一つに、「イエス・キリストは神か、人間か」という論争があった。聖書を読んでみるとこの点、明確にはされていない。結局、「神」派が勝利して、三位一体という教えが、キリスト教の「公的な教え」になった。つまり、全知全能の父なる神とその子であるキリストと聖霊の3つが、一体となって(広義の)「神」となるという考え方である。

 キリストは人間であり、預言者の一人だとする派は、ヨーロッパを追放され、アジア・中東でその教えを広めた。(ネストリウス派)そのうちの一人は、ムハンマドという名前の男と、友達になり、キリストの教えを熱心に説いた。その教えをうけたムハンマドは、自らも神からの啓示を受け、その啓示はいわば、ユダヤ教・キリスト教の改訂版であり、また、これが最終版であるとして、はじめたのがイスラム教である。

 

 私はキリスト教の学校に行っていたので、聖書はけっこう読んだ。

 聖書は旧約聖書と新約聖書に分かれる。

 旧約聖書は、ユダヤ教の聖典でもある。莫大な量だが、ユダヤ民族歴史が多い。波乱万丈で面白い。なんせ、放浪してるし。

 新約聖書は、キリストの言葉や行いを中心に、その周囲の状況などをかいている、「福音書」がメインである。手紙もあるが、手紙類は初期のころのキリスト教で、はっきりいって説教くさい。ちょっとSFチックなのもある。(この世の終わりはこうなるてきな感じ)

 

コーランは読んだことはないが、聖書の記述とかなりかぶっていると聞く。イエス・キリストも預言者の一人として登場する。そして、ムハンマド・オリジナルの部分ももちろんある。(その教えはけっこうころころ変わってたらしい。)イスラム教といえば、「女性はベールかぶれ!」という感じなのかといえば、そうではないらしい。むしろコーランでは、明らかではない。「恥ずかしいところは隠せ」みたいな(じゃあはずかしくなければおK?)

 

 9・11からえんえんと続き、今では「イスラム国」(IS)対アメリカという風に単純化すると、両方とも排他的一神教であるところに問題の根源があるように思える。

 

 イスラム教では、唯一絶対の神アッラー以外の神は絶対に認めない(ま、あたりまえだが)。それが、一部の過激派によって悪く解釈され、キリスト教徒に悪く思われているという被害妄想(ま、実際に悪いイメージを持っている人が多い)とあいまって、テロの正当化につながる余地が残念ながらあるといえる。いそいで付け加えれば、もちろんすべてのイスラム教徒がテロリストというわけではない。

 

 キリスト教は、西洋で、旧教(カトリック)と新教(プロテスタント)に分化した。カトリックは布教の過程で、地元の宗教を取り込み、「悪魔」にしたり、「聖人」にしたり、一神教の形は保ちつつ、多神教的色彩を加えている。これに対して、プロテスタントは、「キリストの教えを純粋に」まもっている。プロテスタントにはたくさんの宗派があるが、それぞれ、「自分が信じる教え」が最高だと思う傾向があり、はっきりいって独善的である。 

 とりわけ、ブッシュ(息子)の支持母体であるキリスト教原理主義者は、プロテスタントの別の宗派の学校を出ている私でもちょっとついていけないものを感じる。

 この人たちは、聖書の言葉を文字通りに信じているのだ。

 はじめに光あれと神がいい、一日目から順番に、一週間でこの世界を創ったみたいなのも含めてである!(ちなみに7日めに人間をつくる)

 そんなん、モノのたとえに決まっているではないか!

 言語には限界があり、聖書の記述を通して、何か深淵なものをつたえようとしていると思うが、文字通り信じることは、逆に聖書の意味を間違えていると思うのだが。

 

一神教と異なり、多神教は、他の神を排除しない。

とりわけ、日本は遠いインドのヒンドゥーの神様も名前を変えて拝んでいたりするし、死んだ人も「神」になる。

 多神教的「寛容さ」こそ、多くの政治的問題を解くカギのように思える。

 

 

 最後に、この分類では分類できないのが、そもそも神の存在を認めていない仏教である。

ゼロ神教とでも呼ぶべきだろうか。

 仏教は現世を「苦しみ」と見て、こうすると楽になるという、実践的、鎮痛剤的な宗教である。