神様は一人だけと考えると、他の人に対して他の神様を信じることは許せないという独善的な考え方につながるというのが、前回のお話でした。

 

 また、宗教が政治的権力を持つと、フランスを救ったジャンヌ・ダルクを火刑にしたり、単に異教徒というだけで、拷問したり火刑にしたりという極端な方向に走ります。魔女狩りは異端審問という「異端」つまり正統的キリスト教徒でなければ、苦しんで死ねという考え方に基づいて行われたものです。南アメリカで、スペインが派遣した神父たちが、インディオのみなさんを拷問して、むりやり改宗させたのもこういった権力乱用のひとつでしょう。

 

 また、キリスト教は修道院などで学問を保護し、キリスト教神学がヨーロッパの哲学や政治学などの発達に良い役割を果たしているのですが、「地球が丸い」とか、聖書の内容に抵触すると思われるまでに発展すると、弾圧する側に回りました。

 ガリレオ・ガリレイの破門などです。

 カトリックはそれでも、寛容になってきているのですが、プロテスタントは、生真面目というか宗教バカというか・・・とりわけ、アメリカ南部でバイブル・ベルトと呼ばれている地域では、進化論を高校で教えられないほどです。

  

 聖書の考え方・・・「自分が読んだ」聖書の考え方だけが正しいというのは、本当に困ったものです。

 

  その宗教自体を経済的弱者が自分を慰めるあへんに過ぎないとして、否定するのが、マルクス主義です。

 

 宗教の偏狭さのさらに上をいった、宗教概念自体を否定する「正しい政治(考え方)はひとつだけ」で、他の考え方は許さない」というさらに狭い考え方といえるのではないでしょうか。

 

 マルクス主義の基礎は唯物論にあります。

 

 以前、科学=即物的、客観的 という考え方が支配的であったとき、「目に見えるモノしか信じない」というような意味合いで、マルクス主義はみずからを「科学的」と称してきました。

 

 しかしながら、こんにち、「完全な客観」なるものは存在しないということが、科学的に証明されています。

 すなわち、科学的実験において、観察者が見ているかどうかがモノの分子などのありかたに影響を及ぼすのですから、観察しうる事実というのは、主観の影響から完全に自由になりえないのです。

 

 また、宇宙にする物質の90%ぐらい以上が、目に見えないものです。

 

 マルクス主義はこんにちでは、エセ科学になりさがったといってもいいでしょう。

 

 マルクス主義の本丸ともいえる経済学でも、経済的行為をする人間の主観を考えずに正確な理論を構成できるとはとうてい思えません。

 

 実際、「文化大革命」で、貴重な文化遺産を破壊し、「資本主義者」をつるしあげて、人の生活を破壊する「赤いテロリスト」たちと、文化遺産を破壊し、人の生活を破壊して、勝手な戒律をおしつけるイスラム教過激派は奇妙なまでにそっくりです。

 

 たったひとつの考え方をよしとし、他を否定するというひとりよがりな考え方こそ、危険思想ではないでしょうか。