気付けばもう12月になっていて、ブログも1週間以上放置していたことになるのだから時間というものは恐ろしい。
私の場合、といっていきなり本題に入っていくのは少々強引ではあるが、時間といったら、「月日は百代の過客にして、行かう年も又旅人なり。」という一文が脳内に生じる。
瞼を閉じると瞳の裏に白抜きでこの一文がわずかに発光しながら――などというと、ありがちな脳内映像だが実際そういう風に浮かび上がるのだから仕方がない。
日本人なら誰でも知っている、奥の細道の序文にある一節だ。
ただ、分からないのはその意味であり、「月日は過客であり行きかう年もまた旅人だ」というところであって、
気になってほんの少し調べてみると、なるほど、前半部分、つまり「月日は百代の過客」という部分に於いては、李白の「光陰矢者百代之過客」を受けていて、そこから「行きかう年は――」と続けたのだと。いやはや、なにも分からない。情報処理能力の低さ、乃至は収集能力の低さが露呈されただけだ。
こんな風に自虐的になるのは寒さのせいだろう。東北の人たちはいつも暗そうなイメージがある。太宰治も青森だ。津軽だ。
そういえば上野発の夜行列車が向かう先も津軽だ。津軽三味線は猫の革ではなく犬の革を使うらしい。愛玩動物が車に揺られて、これから三味線にされるのかと思うとなんだか陰気だ。
瞳はただ丸く、黒く、光っている。三味線になるとき、その光はどこへ行くのだろうか。荷台に繋がる小さな窓を覗き込むと、北を見つめていた。
青函トンネルを超えて、北海道まで行くと、札幌ラーメンに海鮮丼にススキノとひたすらに景気よく、ハッピー。
テレビをつければ水曜どうでしょうがやっている。本棚に太宰治は居ない。蟹工船という文字が一瞬横切ったが、カニすきを船の上でやってどんちゃん騒ぎするような愉快な小説に違いない。
と、ここまで来て唐突だが皆さんに謝りたいことがある。
それは青森から北海道へ向かう際に、厳密に言えば青函トンネルを使うことはなく、フェリーに車を乗せていくという点であって、ただいくつか釈明をさせていただくと、まずこれは決して悪意をもった嘘ではなく、ただ「雪国」のような演出がしたかっただけのことで、なんというかまさに言葉の綾のようなものであり、また、だいたいにおいて青函トンネルを車で超えたと書いているわけでもないし、カメラが青函トンネルから北海道の方にフェードしていくだけの映像としてとらえることもできるわけだから、今回は私と皆さんとで四対六、そこに、素直に言った分を入れて五対五、五分五分ということで、どうか許していただきたい。
それで、まあ話は少しばかりにそれてしまったが、なにをもって芭蕉は、もとい李白は、時を旅人としたのかが大きな謎なのであって、奥の細道の序文にある一節の初めが李白からの引用部分であるということが分かっても、この謎が解けることはない。ということを言っていたんです。ですます口調が現れたのは後ろ暗いところがあるからではありません。
もちろん、単なる表現の一つ、それこそ言葉の綾で、比喩でしかないのだと言う人もあるだろうが、そういった人には「それだけでは回答になっていないんだよタコ助。じゃあなんでそう表現したのかって、問題が少し言い換えられるだけだろうが痴れ者。」と言いたい。その上で、いいですかあ?と語末を上げつつ、続ける。
時間というのは、当然ながら無機物であり、また無生物だ。ゆえに、それ単体で見ればそこに生を感じることは難しい。
定規に刻まれた数値に、生を感じられる人は恐らく少ないだろう。
それどころか寧ろ、無機物ゆえの冷たさ。絶対性ゆえの恐怖すら感じる。
しかし芭蕉も李白も決して、月日はプラスチック製の森だ、などとは言わなかった。安っぽいからではなく、確かに旅人であり、他に言い換える言葉はなく、この表現こそがまさに時を表していると考えたからだろう。そして、彼らが考えて正しいと思ったのならば、自らが抱き続けてきたイメージを疑う余地はあるだろう。というより、疑ってみたいではないか。
旅人は、言うまでもなく生き物だ。そこには明確に生があり、また感じられる。
無機質で絶対的、冷徹な鉄仮面のようなイメージは一端破壊してみなければならない。
時間は生き物。生きてる。温かい。微かな脈動を感じる。生きているからには殺すことができる。
時間を殺すことは、できる。生かすこともできる。
それに時間とは過去だ。未来だ。我々は過去や未来に脈動を、生を感じないだろうか。感じるはずだ。やはり生きている。
で、旅人。犬でも猫でもサラリーマンでもなく、旅人。
旅人は、帰らない。犬も猫もサラリーマンもいつかは帰る。旅人は帰らない。加えて言えば従うこともない。時間も帰えることはなく、誰にも従うことはない。
嗚呼!と叫ぶ。朝焼けが眩しい。時間は生きている、ここに至って確信した。鉄仮面は眼下で砕け散っていた。
時間が逃げてゆく。時間が襲ってくる。
旅人は今日もまた過ぎ去り、現れたのだ。