竹槍でB-29を突き
広島にいながら 被爆を免れたバァヤは
伊勢湾台風の年に串本(現)に来たそうです
つい最近まで元気でいましたが
94の誕生日には 自身で立つ事もできず
生活の全てに介助が必要となってました
それでも 入院や施設を拒否し
車イスに首を支えるモノを作り
通院を続けてました
が
どこの病院でも『値が悪いので長くは……』
という見解です
それでも ボクが家に帰って声をかけると
キョロキョロ探し
目の動きを見ながら
『もっと右、そうその下』
と 誘導すればボクを認識はしますが
声が出ないので 右手で合図
孫や曾孫が 様子を見に来たら
『うるさい』
と 小声で呟けるぐらい元気になりました
この頃には
癌の他に 小さく脳硬塞も認められてましたが
どちらも 命にかかわるモノではない
と 少し安堵してました
そして
94の誕生日から 27日目
血中酸素の値が低下
浮腫みが酷く
夜中に救急搬送をお願いしました
酸素を入れて
尿を出す処置をしてもらい
『明日 また来るからね』
『おやすみ~』
と声をかけると
恨めしそうに ボクとヨメを目で追ってました
28日目
ヨメは昼間 見に行って
『絶対 連れて帰るから』
と 声をかけて来たそうです
そして その夜
病院からの呼び出し
駆け付けると
病室には 誰もいなく
つないでるモニターには『0』の数字が……
看護士たちは 定時の見回りで忙しく
医師は救急搬送の措置で来れず
1時間ぐらい放置された後
誕生日から29日目に変わった所で
死亡診断を頂きました
ボクが前日言った
『おやすみ』という言葉は
彼女にとって
ボクから聞こえた最後の言葉になってしまいました
その長い人生の中で
ボクが関わったのは およそ5年
ボクは彼女に
何かしらの安堵を与える事が出来たのか
何かの役に立つ事が出来たのか
自分が喪主を務めた実父より
たくさん涙しました
これから 日常に戻りますが
きっと ずっと一緒にいると思います