「のだめカンタービレ」が終わってしまった(漫画ではなくテレビの)。
毎週、けっこう楽しみにしていたので、ちょっと残念。
不条理ギャグ満載のドラマなんだが、どこか真実味がある。
それは音楽的な要素の部分に込められていて、見るたびに感心していた。
実はうちの奥さんは、音楽畑である。声楽をやっておられた。
前々から不思議に思っていたのだが、指揮者によって演奏が変わるというのが、自分にはも一つぴんとこない部分もあった。
だって、タクトを振るだけの人間よりも、実際に演奏している人間の方が重要なのではないかと、素人的にはどうしても考えてしまうからだ。
でも、奥さん曰く。
「変わるのよー。指揮者ひとつで」
クラシック音楽の楽譜にしても、それは音符の羅列で記録されているにすぎず、その章節のメロディーがいかなる意図で作られ、どのように演奏されることをモーツァルトが、シューベルトが、ベートーベンが望んでいたのか、すでにわからない。
つまり楽譜には幾通りもの解釈ができるらしい。
その解釈、音楽への理解、そして自分なりの演出が指揮者の仕事なのだろうと思われる。
実際、そうなのだろう。
先日、演劇部に入っている中学生の息子の舞台を見に行った。
が、かつて長女の娘が同じ中学で演劇をやっていたときと比べると、精彩を欠いていた。
息子の中学には、去年までは県下ではその名の知られた女性の先生が顧問に付いていた。
演劇命といった先生である。
この先生は今年度からあらたな学校へ赴任し、それまではなかった演劇部を興して、活動しているらしいのだが、この先生の手にかかるとそれまで全く素人だった生徒たちが、ちゃんと役に入っていって、コンクールでトップに輝いたりするから恐れ入る。
それだけ指導力と知識、そして演出家としての力量をお持ちなのだろう。
それを考えたとき、指揮者というものの存在意義も類推できるような気がした。
ZEPHYRも同じだろう。
各人の個性と力量を最大限に引き出して、彼らによるシンフォニーを奏でたい。
もちろん自分自身も参加して。
その先生に比べたら、私なんかまだまだだろう。