話題の「デス・ノート」の後編を観た。
最大の関心事は、Lとライトの戦いがどのような結末を迎えるのか、原作とはどのように違うのかということ。
まだ見ていない人もいると思うので、あまり詳しくは語るまい。
ただ前編でもそうだったように、デス・ノートの特性をさらに深く追求し、利用した結末になっていて、多くの人の意表をついた結末になっていることだけは言える。
優れた脚本だった。
ストーリーもうまくまとめられていて、とにかくLvsキラの対決構造に焦点を絞って、より合理的な話になっていた。
島田荘司さんが「本格ミステリー宣言」の中で述べておられるように、推理小説の源泉には神話をルーツとする幻想小説、怪奇小説の流れがある。
そこに科学合理主義がドッキングすることによって、推理小説が誕生したのだが、よくよく考えるとこの「デス・ノート」も、同じ特性を備えていることがわかる。
死神の存在や名前を書くと人が死ぬノートなど、これは怪奇小説以外の何者でもない。
しかし、物語はあくまでも論理的である。
人間同士の心理戦が描かれている。
これは理詰めの世界である。
幻想性と合理性。この二面性こそが推理小説の本質だが、通常は名探偵などの論理解決で幻想の闇が払われるという形で結末を迎える。
「デス・ノート」は幻想は幻想のまま、論理は論理のままという、完全に両輪が最後まで平行線をたどって、一本化されることなく結末を迎えている。
こういう小説は多くはないが存在する。しかしながら、「デス・ノート」並みの面白さを実現したものは、かつてないかもしれない。