今さらという感じなんですが、実は最近になって「一太郎」を使っている。
これが、結構使い勝手がいいということに気づかされた。
多くの人がパソコンで執筆するときには、「ワード」を使っていると思う。実際、私も長いことそうだった。それは人の好みの問題だと思うので、あれこれいうつもりはありません。
ところが「ワード」はもともとが英文をベースにしたプログラムなので、日本語の入力には適さない側面もある。
印字されたものを見て、「うーん、美しくない」と思ったりもしていた。
そこで何年か前に、薫葉君やHさんと共同でQXエディタなるワープロ・ソフトを入手した。これは作動も軽く、じつにいいソフトだった。
今でも使っている。
ところが「一太郎」。
これがいろいろな意味で使いやすいというか、自分には合っていると気づかされた。
というのは、パソコンに移行する前、私はだいぶ長いことワードプロセッサーを使っていて、それに慣れていた。その感覚に近いものが「一太郎」にはある。
「いいじゃん、これ」という感じで、ここのところの執筆は「一太郎」でやっている。ATOKとの相性ももともといいし、うん。
まあ、こういうものは本人さえよけりゃ、他人があれこれ言うべきものではないと思う。ワードで作られた文書など見ると、ルビなどふられたところは行間が変わっていたりするのだけれど、それとわかっていれば問題視するほどのものでもなんでもない。
肉筆の生原稿を読む方が、場合によってはよっぽど辛いわけだし。
ただ文学賞の選考委員をここ九年続けてきているのだが、やはり読みやすい原稿と読みにくい原稿というのがあって、読みにくい原稿はやはり自ら首を絞めているようなところはあると思う。
内容的に僅差の作品が二つあるとして、読みやすいのと読みにくいものの差があった場合、やはり読みやすいものの方が有利になる。もちろんそういう外的条件はできるだけ排除し、内容で判断しようとはするのだが、「読みにくい」=「作品に入りにくい、感情移入しにくい」、などといった現実問題を発生させるのは、どうしようもない事実である。
生原稿でも丁寧に書かれた文字なら読みやすいわけだし、またワープロ・ソフトを使って作られた原稿でも、小さなことが気にかかってしまう体裁になっているよりは、なにも引っかかりがなくすらすら読めた方がいいに決まっている。
もし新人賞などに応募しようと思っている人がいたら、このあたりは少し配慮してもいいかなと思う部分です。