トリノ・オリンピックが毎日ニュースを賑わわせている。
正直、仕事柄オリンピック中継などを楽しめる環境にはない。それでも先日、モーグルだけはビデオ放送されているのを見た。
上村愛子選手は惜しかった。惜しいというのは単にメダルに届かなかったというだけの話で(もちろん本人も周囲もそれを望んでのことだろうけど)、個人的には彼女の競技を見て、素直にすてきだなと思った。
ああいう競技では瞬間にすべてが凝縮されてしまう。
練習でどんなにうまくやれても、本番で失敗したらアウトである。それを彼女は見事にコンセントレーションして、自分の演技をやり遂げた。見事だと思う。
あの集中力、背景にある積み重ねは誰にもまねのできるようなものではない。
日本は今大会でどうも不調らしい。
メダルの獲得の有無というのは、冷酷な世間的評価なのだが、オリンピック競技を通じての自分の関心はメダルを獲得できるかどうかというようなものではなく、その人がその人なりの実力を、あのような大舞台で発揮できるかどうか、そのためにはどうしたらいいのかということにある。
それは小説創作にも通じるから。
小説(特に長編)は長いスパンの中で構築されていく。したがって手直し、校正作業などを通じて、創作上の失敗は消せる。少なくとも読者の目には触れない。
しかし、実は創造は一瞬にして行われることがままある。
その瞬間につかみ取ったもの、それがもっとも強烈で力がある。
後でうまくつじつまを合わせれば破綻はないが、パワーは低下する。
だからその瞬間の何かをうまくキャッチし、その何かをいかに文章化して形として定着させていくかということは重大な問題なのだ。
キイワードは三つあると思う。
現場でのコンセントレーション。
日頃の修練。
信念(自分を信じること)。
この三つは相互に関連しあっており、どれか一つが欠けても実現は難しいと思う。
修練を積んでいない自分を信じることはできない。
自分を信じずして本番でコンセントレーションはできない。
コンセントレーションのない修練は意味がない。
という循環になっていると思う。
逆の言い方をすれば、
はっきりとした目的意識を持ち、コンセントレーションして修練を積むことで自分に自信を持つことができ、それゆえに本番でもしっかりコンセントレーションができ、修練の成果を出すことができる。
上村選手がすてきだなと思ったのは、あの瞬間の彼女にこの三つの良い循環を感じたからだ。
彼女のように横顔にそうしたものを感じさせる、良い作家でありたいと思う。