こんな簡單な生活禪があるのに、「坐禪」でもやると、偉い者にでもなかったと思ってゐる、禪寺へ行って見ろ、天魔がゾロゾロ、見性印可を貰ったと云うヂヂイの居士に、貴様、クソの垂れ方が旨くなったかと笑ったら、此のヂヂイ、俺の排斥運動を初めたには驚いた。


自分の現在の生活になり切って、少しの不安を持たずに居られたら、禪の生活なのである。此の様に考えると、市井の方に禪に達人が多い、禪寺の山は天魔の巣だ。禪坊主でもウロウロしたら、俗物だ、 

 

本当に達人かどうかは、その言葉や起居動作がカタビシして居るかどうかで判る。禪で云へば息の問題になる。


怒っても呼吸が乱れる。悲しんでも乱れる。あせっても急いでも乱れる。


始終乱れてゐる人がある。怒ったり、悲しんだり、㐂こんだり、こんなのは金玉上下症と云う病気だろふ、外界の状況ですぐ気分が変るくらいだから、心の中に靜けさはない。


姿や行動はどんなに乱れても、呼吸だけは乱れてはいけない。怒り悲しみよろこびにも、靜かに怒り、靜かに悲しみ、靜かによろこばねばならぬ、その為には、呼吸が「靜か」でなければならない。


火事だ!!軒にまで火が廻って来た、あゝしろ、こうしろ、指揮し乍ら、自分も家の中を駆け上がる駈け廻り乍ら、火の勢を見てゐる。人の動きも察してゐる。そして、ヘソの下には盃に入れた水がピンとも動かないやうな落付きを保ってゐる。これが達人だ。ヘソの底からひっくりかへる。これは普通人なのだ。


禪なんて、こと改めてやる必要はない。只、現在の自分になり切って、四囲の状況に自由自在に應対出来ればそれで済む事だ、自由に應対するには、何彼と斉を張ることをやめて、流れに任せて暫く笑顔で暮してみることだね。
自然に禪の達人の境地に這入られるからさ。