「妙なもんですね、今日気が付いたんですよ」と老人がその事を語りに来た。

 

 陶器作りの道楽を初めてから 三十年になります。今日ネ、ハっと気が付いたんです。

 オヤ、俺は何を考へて造っていたんだろふ。一つ一つに斯ふしやう、あうしやうと注意していただろふか?妙でせう、一つ一つに注意して技巧をこらして造っていた様に思ふんでふが、今になって、出来上がった目の前のものも、ずっと次前に作ったいろいろのものも、更めて考へてみると、この指が無意識に働らいて作っていた様な気がするんです。一つ一つに指の働きを考へていたんだったろふか、違ふんです。


 只、作っていたんですね、ごはんを食べる様に、手が箸を無意識に運んでいた様に…と思ひ付いたら、今まで何として居たのだ‼︎妙な気がして来たんです。どれもこれも特別に考へて創造したなんてものは無かったと気付いて、笑って終ひました。」


 全く、「さもあらん‼︎」と思ふ。みんな新らしいものではない、今までの習慣、習熟が、一つ一つに働いて作り出したもので、特別に「意識が働いているもの」でもない。


 これを日常生活に付いて考へると、毎日毎日を斯くあれと行動一つ一つに意識きていただろふか、そんな事はない。毎日毎日習慣の運行でしかないのではないか?


 その無意識の様に行はれている日々の生活、其処に今までの生活の形が知らず知らずの内に現はされて来ているのである。
そして、意識的に働いているものは有るのか、探してごらんなさい。何もないから。
 あるとしたら、それは「性命」の働きなんです。