此処にも鍛は三年 練は十年の言葉の"理"があります。

さて、現在は、鍛の時か、練の時か、もふ達人になっているか考へて下さい。


今、まだ鍛の時らしい、どうも仕事が甘く行かないと考へたら、さっさと方向転換して下さい。一年や二年空だって、次の方に転換すれば取りかへしは付きます。それをグヅグヅして時を失っては大変です。
 

"一 二が出来れば"と申しましたでせう。
練の時だな とお考へでしたら、もふガッチリ固めて方向転換を考へないで下さい。もふ引込みは付きません、出直しは遅いのです。


特に商人の人、何年経っても金の苦労は、大きくなっても、小さく居ても付きものです。金の苦労は商人の"業"で易者には鑑定の苦労 芸者は三味線の苦労、画家は色の苦労が その仕事をやる以上、切っても切れない"業縁"なのです。


昨日十万円もふかった、今日は二十万の損だ、先月は三十万の赤字で今月は五万の黒字だと、これは商人の常、決して、一割づつ キチンキチンと残るものではない。丁度四斗樽に水を張って、それにチョロチョロ這入りチョロチョロと出て居る様なもの、それでも水道の水でも永い間には 樽の底に 沈殿物がたまり、水苔も出来て、中の金魚も鮒も気持ちよく住めます、これが商売では"信用"なのです。折角四斗樽に水が一ぱいになるまでの鍛の三年から、いよいよ水苔の出来る練の時になって、さーっと樽を引っくり返して、箒でさらさらと洗って新しい水を入れては 金魚も鮒も生きるのに大変ではありませんか、