シンガポールが昭南市と呼ばれた頃(負ける前には勝っていたんですよ)街を歩るいていたら、西本願寺沼南別院の前に出た、説教板の上に「自然法爾」と書いてあったね、それを見たら、スーと気分が変った。そして「毎日毎日を法の姿の現はれとして森羅萬象ことごとく味のあるものとして楽しむこと世と考へ付いたら、愉快になって 暇を作っては スケッチを八十枚位い書いた、絵の具がないので小学生のクレヨンで書いたんだが 終戦の時、他のものと一緒に焚かれて終った。無駄になったっていいさ、やってみるだけである。
 

鰯の頭も信心から有難みも生じて来る、生き甲斐があると思へば他の人が何と云つてもいいじゃないか、そして毎日をしみじみと味ってなら、短命であつても人生の味ひは長いし、ボーと生きて、私は幾つまで⁈の程度なら、毎日毎日は上の空で、只苦になるのは、「ゼニコが無い無い」なのだろう。


自分の性命的な仕事掴んでゼニコが無かろふが、世の中が辛かろふが、甘かろふが、そんな事は女房任せ 自分の仕事を人が理解しよふが しまいが、ほめてくれなくとも くれても、只それだけ、
 

生きると云ふことが楽しいものでありたい。