さあ、「はこび」方が違ふと云ふことは大変なことです。

まるで木に竹を継いだ様なもの、木と金とをくつつけた様なもの、二人とも苦しみます。

 

夫婦ともに不満を持つて「生活」を続けます。

勿論 雄雌、ゴメンナサイ、男と女ですから、自然の理法が働いて赤ちゃんも生れます。


矢張り天地神明の気を受けて、天地無差別で他所の赤ちゃんと変りない赤ちゃんです。

夫婦の間に愛情があつた、無かつたに関係ありません。
 

では宿命的なものはどの様に現はれるか。
これは「気が合ふ」と云ふのでせふ。私が先に云ひました、当事者が前に居れば、戯談を云ひ乍ら、その顔色を見、聲を聞いて居るのだと。

 

宿命的な結婚相手と出合つたなら、二人とも気負つています。勇んで居ます。

因縁と云ふものに関係なく、むしろ、両者とも因縁などは無視して掛つて居るのが、言葉や 態度や、聲やアクセントに現はれているのです。
私は、それが有るか無いか、細心に眺めて、これは因縁の結婚だな、両方の「はこび」が合致出来るものかどうか考へます。これは宿命的なものと判れば 即座に賛成します。
 

両方の気が合つていなかったら宿命ではない。

お相撲さんだって、気が合つてこそ、両方が充分の力を出して争ふことが出来るんでせふ。その為に何度でも「仕切り」をやるではありませんか。

 

男と女もそうで(此のばあい、結婚に限らず)会った瞬間に仕切りがきまる程のもあるし、全然「気の合はぬ」ものもあります。「嫁になれ‼︎お嫁になるわ‼︎」でよいではないか。パッと気が合ふのは宿命的に求め合つた者同志なのです。