その金持、貧乏等のことは、因縁と云ふもので宿命と云ふものではない。
 

宿命とは、何年何月何日に生れた、何年何月何日に死ぬと云ふ様なものだ。

そして、これ以外に何もない。
 

此の宿命は、人為的に如何とも為し難いもので、此の生れるのは、両親とも如何ともなし得ないもの、又その死をも如何とも為し得ないものなのである。

 

例へば子供の死を如何に両親が悲しみ、看護に努力し、名医が最良の治療手当を行つても、生命をとりとめる事が出来ぬ如くである。

 

宿命とは如何とも為し得ぬものである。
 

これは我々の手で日月の運行を止められないのと同じく、又、この私が生れた時、何も意識して居なかった、本意でも不本意でもなかった様に、死に対しても何んとも為し得ないのと同じである。
そして又、生れてから死ぬまでの間も、自分の思ふ通りにならぬものである。

 

貴方は思ふ様に出来ると思ひますか。大学に這い入りたい、それが思ふ様に出来ましたか、彼女は美くしい。お嫁さんにしたい。出来ましたか。あの商売が良さそうだ。出来ましたか、出来て思つていた様に良いでせふか。何も出来ていない。本当は、此の今の姿は四周の状況から、自然と此の様になったのだ‼︎の方が多い。楽にそうなつたか、苦しみながら斯ふなつたかの差があり、その結果の現在が良いか悪るいか、
 

それは、因縁 因果の姿が斯ふ現はれて居るのであつて、決して、運が良いとか悪るいと判定することは正しくない。その思ふ様に出来ない人の世の因縁の流れの中で「はこび」を良くしたか、悪るくしたかに依って、現在が良いとか悪るいとかになるのである。