立つとは なんぞや

勿論 日本書紀には 立ったり座ったりの記述はあるそうですが 現代的なアイデンティティなんぞの概念、個がバキバキにない時代 万葉集の時代の立ちの用法は もっと緩やかで多様な使われ方をしています。 チが 白いモヤ(雲、霧)が 虹が 波が 風が 月が立つ 音が 声、噂が 石が 旗が 柱が 木が 矢が 家が 湯が 腹が等 様々なモノがコトが 立ったのだ

なぜ 哲学ぽく 立つとはなんぞやと 追い求めたのか?

それは、身体が知ってしまったからだ

WSでの立つをテーマにしたスロー稽古では 無論 人類の2足歩行の前段としての立つ事を、まるで生まれたての小鹿が4足を震わせ初めて立った様に立った この体験は何だろう、環境を整える為の前適用的経験か?。 卵が先か鶏先かに陥りそうですが多分それをひっくるめて対として 微感覚と変性させた意識が 初見でいてクリアな感覚を持って捉える、 その微感覚が全く別種の立ちの経験を時空間を立ち興したのだ

少し立ち戻り 立の漢字の成り立ちを見ていき 座標軸の力も借りてサッとだが仮説を導く 一という象形の大地に大(手を広げた人)が立っているがの漢字「立」の成り立ちである それを 止観し一を大地と限定せず、抽象の地平とした たて軸に対しその地平を上下すれば時空の観えも変わり 実部 虚部 重解等を得られる感覚になるのだろうか?。坐る-立つ、と云う実部の括りでないものを。 実際の感覚は 反撥はしているが大地を支えに感じれていない 実の立ちの足元が 大地では無いので 形の覚えがおぼつかないのだ まるで幽霊のあし(笑)西洋のコーストは足あるのだけれども(笑)

上記の多くの用例の立つの原義は 上方、前方に向かう動きが はっきり目に見えるように形を表すこと 作用が活発に働き顕現すること それが転じ はっきり人目につく位置に占めて存在する(大野晋)

結果、それが物だったり者(ば)だったりと

この原義 凄く面白い。何故って その原義を追体験して さらなるなんぞやも 生(あ)るとこに気づき 少しクリアにしていく
それを軸に継続的に興る我の連なり(同一的自我)の流れ、立ちの興りそのものの純粋経験に浸る 立つと云う言葉が生まれたその時に立ち合っているかの如く

と同時に 要の所が 人籟か地籟かもわからず
己の無知を叩きつけられる

表出は 実である
存在であり 表現である
セラピー(己の芯部)であり 芸術でもある

この身に起きた出来事に
言葉を懸けてあげたい

言葉はタイムカプセルのように場を時を超えてゆくが 言葉が生まれたそばからの言葉の死者性、言葉の表出の不完全さも承知するのだけれども

それが存在(=自己)そのものなのだから切実だ
不完全だけどその刹那はそれで均衡して今があり 均衡に内包する不均衡さが流れを生む 人の意識側は今のスナップ写真を取り積み重ねて行きたい。同一性を担保するため

立つの意が転じ 人目につかせ
存在が存在する場を占める為の  
 
文字を生み出しす情動
文字が立ち興る刹那の(過去でもあり刹那)
ありありし