かぐ山は 畝火ををしと 耳成と 相あらそひき 神代より かくなるらし‥

当人の歌らしいのだが
解釈はワイドショー的な比喩だが
三つの山へや擬人化は 成功しているのか?物片りとしてはいいが。過去の伝聞に染まりすぎてやいないかと

自分としては「と」と「と」が相あらそっている感じなのだが

耳で<成(で梨:刈り取る)>入ってくる言葉と、畝火の様な燃え上がる愛しい気持ちとが争うは 神代から、観られるこころの相克。の方が好きな感覚だ

ひと昔でいえば、あだち充の「タッチ」の達也のポジション(笑)たな

ジャンルが違う舞踏を抽象度を上げて考えていたら偶然この歌が目に留まりそして「択一」と云うワードでこの歌と舞踏がつながる