徳島自衛官変死事件⑦~再捜査とその結果報告~ | 全曜日の考察魔~引越し版

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ブログ移転しました。

長くなってしまったのでこっちに分けました。

再捜査とその結果報告

(以下、「⑥」の続きの部分を妹の手記から抜粋)

2000年9月11日、E警部が遺留品を借りに自宅へやって来ました。

彼等の目的は、変形した兄の靴でした。

私は現場にあったという足跡の写真を見せてもらうのを交換条件に、貸し出しを承諾していました。

靴を貸し出した後で足跡を見せてもらっても、本当に現場にあったものか分かりません。

疑いたくはありませんが、借りた靴で警察が証拠を作るのではないか、という懸念があったのです。

E警部は、現場で採取した足跡の写真を持ってくることを承諾していました。

しかし現れた彼は、「足跡は見せられない。また作ったんだろうとか色々言われたら困るからね。ほなけど、靴は借りて帰るけんな」と言います。

本当に(現場の欄干の外側に足跡が)あったのならば、なぜ(その写真を)見せるのを拒むのか分かりませんでした。

それでも、遺族がいくら調べても証拠にならないため、結局は警察に遺留品を預けるしかないのです。

弁護士からも「きちんと再捜査してもらうには貸さないと仕方ない」と言われていました。

E「この靴、X線とかで調べたで?」

妹「それはあなたたちの仕事でしょ。病院が靴にX線かけてくれると思いますか?」

一般の免許がない人間で、X線を使える人が何人いるのでしょうか。本当に悲しくなってきます。

靴を見ながら雑談交じりの会話をし、帰ろうとしたE警部を呼び止めます。

妹「服はいいんですか?」

E「いまさら服調べてもなぁ」

妹「でも服の胸のところに何か物が当たった形跡が残ってるんです。下着にまで残っています」

机の上に兄のジャケット、セーター、下着を次々に広げました。

それぞれの胸には、丸い跡が同じ位置に残っているのです。

 

徳島自衛官変死事件

 

E「ほんまやな、あったあった。これ写真に撮っとけ」

E警部の顔色が見る見る変わっていきました。

後ろで見ていた巡査に撮影を指示し、ルーペを使って確認します。

E「外形5cm、内径4cm・・・。撮影したか? これも借りるでよ」

妹「ちゃんと調べてくださいね。跡を消すなんてこと、ないですよね」

E「ちゃんと鑑定書添えて説明するけん」

父がジャケット、ズボン、セーター、靴の押収品目録交付書に署名している間に、私はその日、E警部が言ったことをメモにまとめていました。

それを横目で見ていた警部が近寄ってきて、私のメモ用紙を引っ張ります。

E「Tちゃん、なに書きよんえ? あんまり変なこと書かんといてよ。あとで言われるん嫌やけんな」

妹「私にはMTという名前があります。あなたにTちゃん呼ばわりされる筋合いはありません」

ここに書くのが嫌になるぐらいです。

E警部は私が腹を立てるのを待っているのでしょうか。それとも全然悪意はないのでしょうか。

常にニヤニヤと薄ら笑いを浮かべているのです。

1か月後の10月10日、遺留品を返しに来たE警部は、また約束を守りませんでした。

あれだけ鑑定書を添えて説明するといっていたのに、

「何もなかったけん。靴は時間が経ち過ぎて分からんなぁ」

と言うだけで、コーヒーを出そうとしていた母とぶつかるぐらい、慌ててそそくさと帰っていきました。

彼の慌てふためく姿に嫌なものを感じます。

今度は私が慌てて返却された兄の洋服を箱から出しました。

もしかして、私たちに説明できないものがあったのかもしれない。

「やられた!!」

思わず私は叫んでいました。

そこにはE警部も確認したはずの(胸の狭い範囲に外力が加わったような丸い)跡がありませんでした。

大学で手渡されたびしょ濡れの服を、母は洗濯機で洗っていました。

それでも決して消えることがなかった(胸の部分の丸い)痕跡が、E警部から返された服からは消えていたのです。

ウールはスチームなどを当てれば、押しつぶされた繊維でも簡単に起毛します。

電子顕微鏡などを使わないと、その前の跡は分からないかもしれません。

疑いたくない、信じたいのに、警察が消したのだという思いを打ち消すことができないのです。

私たちの本当の意味での戦いは、阿南署の捜査よりも、再捜査が始まってからだったのかもしれません。

まず驚いたことに、事故現場の写真が阿南署にはほとんどありませんでした。

E警部は私が撮影した現場の写真、約1000枚を借りると言います。

E「妹さんの手元にも写真いるでしょ? (警察への提出用に1000枚を)焼き増しするのも大変やから、ネガ貸してくれたら、警察でプリントするから」

妹「それは結構です。ネガを無くされても困りますし、Eさんが必要な写真を(1000枚の中から選んで)取ってください。写真の裏に私がサインしますから」

E「サインしてもらわんかったら借りれんのやったら、現場写真いらんわ」

私が言っていることが変なのでしょうか。

警察を疑いすぎているのでしょうか?

でも今までの彼らの裏切りは、私をどんどん用心深くさせるのです。

押し黙ったままの私たち二人の間で、科捜研が写真を見ています。

科「欲しい現場写真が何枚かあるんで、借りてもらわないと困ります」

(この科捜研の言葉に)E警部はしぶしぶ写真の押収品目録交付書を作り、父にサインを求めに行きました。

(中略)

またある日、「8月30日に行われた鑑識作業の際に、運転席のエアバッグから本人の衣服の繊維が見つかった」と、E警部から伝えられました。

そしてそれが、エアバッグ作動時には本人が運転していたことの証拠になると説明されます。

それまでの阿南署の捜査で、エアバッグに兄の洋服の繊維が付いていたという話は聞いたことがありませんでした。

それなのに、洋服を貸し出した後で「繊維が見つかった」と言われても信じられません。

彼らが借りて帰った洋服で作り上げた証拠なのではないか、と疑ってしまいます。

(橋の欄干の外側に付いていたと阿南署が言った)足跡についても同じです。

証拠物件(この場合は靴)を貸し出す前に、(靴の変形や足跡について)きちんとした説明や証拠の提示をする約束をしていても、それが守られることはありませんでした。

(中略)

2001年3月6日、(再捜査の)申し入れから半年後、再捜査の最終説明が行なわれました。

報告に来たE警部と(上司の)N次長(仮名)を、私たちは兄のいる仏間に通しました。

N次長は仏壇に目をやることもなく、座布団に座ります。

E警部は「報告はできませんけど、一応・・・」と、仏壇に手を合わせました。

妹「言った言わないになるといけないので、説明を録音させていただいてよろしいですか?」

N「いや、録音はやめてください」

N次長の答えに、私は録音テープを机の上に置き、メモをすることにしました。

それから始まった説明は、とても私たちが納得できるようなものではありませんでした。

E警部は「報告できない」と言いましたが、兄はきちんと聞いていました。

兄の仏壇の横に飾られたフラワーアレンジメントの中には、ビデオカメラがありました。

それは彼等の態度、言葉の一つ一つまで記録し、見続けていたのです。

以下、彼らの再捜査の結果説明を、私が感じた疑問点を添えて記します。

(ブログ筆者注: 妹さんの手記からの抜粋が続いております。要点のみを抜き出し箇条書きにするというやり方ではこの事件はなかなか伝わりにくいものがあると感じており、またその伝わりにくい部分にこそ、なにかしら伝えなくてはならないものがあるような気がしています。

ときどき( )でくくった言葉や、その他の補足的な短い言葉<例えば下の文章で言えば「再捜査による説明」「妹の疑問」という言葉>を入れていますが、それ以外は原文ママです。)

 

交通事故について

再捜査による説明---「エアバッグを鑑識した結果、だ液が付いていることは分かったが、時間が経ち過ぎているため、個人までは特定できなかった。事故がなぜ発生し、事故現場から車がなぜ移動したのか、誰が運転していたかも分からない。ただ第三者の関与はない。関与があったとしても、今回のこととは関係ない」

妹の疑問---交通事故では、実際に衝突・接触していなくても、その事故が起こった原因が他者にある場合、それを処罰することができます。なぜ、(第三者は)関係ないと言いきれるのでしょうか。

まただれが運転していたのかも調べずに、「第三者の関与なし」とは言えないはずです。

橋からの落下点について

再捜査による説明---「(再捜査では)落下地点について調べるため、県警は46歳、体重80kgの機動隊員が高さ3mからの飛び降り実験をした。その結果『一人だと飛べるが、複数で放り投げるとその距離に行かない』ことが分かった。機動隊員は助走をつけて飛んだ。遺族に実験の詳細は教えられないが、飛べたことに間違いない」

妹の疑問---法医学者、交通事故工学鑑定人、スタントマンは、人間の運動能力、行動心理学、物理学、飛び降りるという行為の経験などから、兄の落下地点まで一人で飛ぶことは不可能だ、と言います。

兄は、約16mの高さから落ち、足は6m先まで飛んでいました。

その落下地点まで人が自力で飛べるのかを実験するには、3mの高さから飛べる距離を測り、そこで出た飛距離を放物線の方式に当てはめ、16mの高さからの飛距離を計算しなくてはなりません。

しかし警察の実験は、兄がいた6mの位置まで飛ぶには、どれぐらいの速さで踏み込めばいいか、という初速を割り出す実験だったのです。

計算では初速11km/hで踏み込めば、兄がいた場所まで飛ぶことができます。警察は高さ3mの訓練用の鉄塔の下に厚さ2mのエアマットを敷き、初速11km/hで6m飛ぶことができるかという実験をしたのです。結果は飛べる、というものでした。

しかし11km/hという速度は、自転車を立ち漕ぎで走らせた程度です。平均歩行速度が4km/hですから、(11km/hというのが)どれだけのスピードか分かってもらえると思います。

(しかも)現場の橋は(高さ85cmの欄干が付いており)助走がつけられる場所ではなく、また警察は、欄干の外側に兄の足跡があったと言っています。それではなおさら助走などつけられません。

警察の実験は、事故と同じ条件でおこなわれたとは言えないのです。

 

自殺の判断について

再捜査による説明---「阿南署は司法解剖の結果が出る前に自殺とは言っていない。(「お兄さんの死について、阿南署から『自殺』だという連絡が入っています」と言った)自衛隊からの(遺族になされた)連絡は、自衛隊が言葉を間違えたのだ。自衛隊は県警に(その言い間違えについて)『大変申し訳なかった』と謝罪している」

妹の疑問---県警のこの説明について、私は、小松島、江田島の(自衛隊の)両警務隊に問い合わせてみました。

両警務隊は「確かに阿南署から自殺と聞いたので、謝罪をする必要はない。徳島県警に対して謝罪をおこなったこともない」という答えでした。

もちろんこれまで、自衛隊から私たちに「言い間違えました」という説明はありません。

致命傷について

再捜査による説明---「胸部大動脈損傷は、事故の際に作動したエアバッグによって負っている。同じ事例を、長崎大学が九州法医学会で発表している。(発表されたその事例では)60歳の男性がシートベルトをせずに正面衝突を起こし、ハンドルで胸部大動脈を切断して10時間後に死亡した。またその遺族は、トヨタを相手に訴訟を起こしているが、事例資料は遺族に見せる必要はない」

妹の疑問---(警察はあたかも兄がシートベルトをしていなかったかのような説明をしているが)兄は車に乗る際には、助手席の人にも「僕の車に乗るんやったらシートベルトをして」という人でした。

(クリスマスの日に兄とデートをした)Y子さん(仮名)も、「Mさんはシートベルトをしていました」と言っていることから、本人が(シートベルトを)していなかったとは考えられません。

そして、県警がいう(長崎大学が九州法医学会で発表したという)事例については、後ほど詳しく説明しますが、兄の事件とは全く(状況が)異なるものでした。

またネッツトヨタ(徳島の当時の社長)は、トヨタグループ全社、全ディーラー、販売店に対して、警察が言うような訴訟が起こっているかを調査してくれましたが、その事実はありませんでした。

 

(ブログ筆者注: 胸部大動脈損傷の原因について、徳島県警捜査一課は、「橋から落ちた衝撃による」としていた阿南署の説明を変更してきた形。

これで一応、「胸部大動脈の損傷は橋から落ちる前に生じていた」とした徳島大医学部の解剖医の説明と、損傷の発生時期についてはつじつまが合うことになる。

警察が持ち出したエアバッグによる大動脈損傷の事例は、1998年の日本法医学雑誌に掲載された、長崎大学及び長崎科学捜査研究所によるレポート『エアバッグ作動にもかかわらず大動脈損傷により死亡した一例』で報告されたもの。徳島県警は「胸部大動脈損傷=エアバッグが原因」ということの補強証拠としてこのレポートの事例を持ち出してきた。

ただし、このレポートで紹介された事例について、徳島県警は妹に対し「60歳の男性の事例」と説明していたが、実際には「71歳の男性の事例」だった。

この71歳男性はシートベルトをしない状態で、停車中の清掃車に正面衝突し、エアバッグが作動したが、頭部と胸部に損傷を負って死亡した。

妹がこの71歳男性の事例と兄の事例について何人かの法医学者、整形外科医、外科医に話を聞いたところ、「70歳の老人と30歳の健康な男性とでは、同じ血管の状態だとは考えにくい」との説明があった。またMさんの事例では、妹によると、「何より兄は、頭部に損傷を負っていなかったのです」)

 

足跡について

再捜査による説明---「欄干の外にあった足跡は、右側であった。担当警察官、鑑識員は足跡を見た経験がなく、左右の判断ができなかったのだ。(再捜査のために)靴を借り(に来)たときには(足跡の写真を)見せられなかったが、今は足跡(の写真)を見せられる。」

こう言って県警が見せてきた写真の「現場(の橋の欄干の外側)にあった足跡」は、素人の私が見てもハッキリと右側だと分かるものでした。

なぜ、足跡を見慣れているはずの刑事課、機動鑑識員、そして県警から来ていた捜査一課検視係までも、左右の区別がつかなかったのでしょうか。

また、あれほど見せられないと言っていた足跡(の写真)を、突然提示してきたことにも驚きました。

洋服の(胸部に残っていた、狭い範囲に外力が加わったような)痕跡を消されたという疑念がある私は、足跡も作ってきたのでは(証拠のねつ造)、と思わずにはいられません。

いま(足跡の写真を)見せてくれるなら、なぜ(靴の現物を)貸し出す前に見せてくれなかったのでしょう。

その他の懸案事項について

再捜査による説明---「阿南署が遺族に対して言ったことは、あくまで阿南署が言ったことであり、徳島県警が謝罪する必要はない。私たちが再捜査をおこなったのは、遺族から依頼があったからであり、阿南署に落ち度があったからではない。また、阿南署が言っていた『初動捜査のミス』とは、福井派出所の森下巡査(仮名)の判断が甘かったというだけで、阿南署や県警には何の落ち度もない」

「車の運転席側の屋根にあった傷については、いつどうやって付いたかは分からない」

「本人の足取りを調べる必要はなく、Nシステムなども使わない」

「全ての証拠の裏付けは取っていない」

とにかく、すべて「分からない」「言えない」のオンパレードでした。

質問したり疑問をぶつけると、「そんなことを聞くんだったら、もう説明しない」と、E警部は机を叩きながら怒鳴り散らすのです。

挙句の果てには「殺人の定義について説明しろ」と、喧嘩を吹っかけてくる始末です。

そしてその隣では、座った途端にタバコに火をつけたN次長が、まるで他人事のように成りゆきを見ていました。

彼らが持ってきた資料も、ほとんどは私が提出したものでした。

また彼らがおこなった実験(飛び降り実験など)については一切の文書回答はできない、捜査の参考にした文献やレポートも一切開示をしないと言います。

再捜査が開始されたとき、県警は鑑定書類を添えた回答を文書で報告する、と言っていたはずです。

何も見せられないし説明もできないが、兄は自殺したのだそうです。

遺族がなぜ再捜査を申し込まなければならなかったのか。それを考えて欲しかったのです。

人がこの世から亡くなり、その人には人生も家族もありました。(中略)その死を調べる上で「捜査してあげない」「説明してあげない」などと言うのは、「誠実」という言葉からは、あまりにもかけ離れているように思います。

ただの仕事と割り切った捜査であってもかまいません。

ただしそれが職務である以上、厳粛に受け止めて欲しかったのです。

父の膝に置かれた手は、ギュッと拳を握り締めたまま動きませんでした。

母は「お兄ちゃんが可哀想や」と泣き出しました。

母を抱きしめる父の腕も震えていました。

父の腕の中で母が叫びます。

「あなたたちは自分の子供に『お父さんは立派な捜査官だった』と胸を張って言えますか?」

N次長ははっきりと「言えます」と答え、E警部は黙ったままでした。