加茂前ゆきちゃん失踪事件③~考察~ | 全曜日の考察魔~引越し版

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股割レの正体

以前、本ブログでは「ケータショー」を「モーターショー」の事ではないかと考察しましたが、ここは一旦「②」に戻ります。

その「カアイソウ」なことを犯したのは、作者によると、

コンナコとヲシタノハ トミダノ股割レ

トオモイマス
(こんなことをしたのは、トミダの股割れと思います)

「トオモイマス」の部分は、原文では、後から付け加えたかのような小さな文字になっている。
ここであの「トミダノ股割レ」という、有名な言葉が登場している。「股割レ」という表記が不気味さをより演出している。

この言葉の意味については、

「トミダ」=「富田(つまり事件が起こった四日市市富田)」

「股割レ」=「売春婦の別称」

であるとして、「トミダノ股割レ」=「富田の売春婦」とする見方が多い。

これが、ほぼ定説になっていると思う。

確かに「四日市市富田」は女児失踪事件の発生した場所でもあり、「トミダ」=「四日市市富田」とする解釈には説得力があると思うし、「股割レ」=「売春婦の別称」とする解釈も、そう解すれば、文書の意味が最後まで無理なく通ることを考えれば妥当に思える。

ただし「股割レは売春婦の別称」という解釈を、動かしがたい鉄板のようなものとして受け入れるべきかというと、疑問に思うこともある。

そもそも「股割れ」という言葉が、この怪文書以外で「売春婦の別称」として用いられてきた事実があるかというとその事実を、私は知らない。

「股割れ」「売春婦」というワードでググってみても、検索に引っかかるのはこの事件と股割れズボンに関するサイトばかりで、例えば、いつかの時代、どこかの地域、小説などで、「股割れ」という単語が売春婦の別称として、ある程度以上の頻度で用いられた事実を示すようなサイトを、私は見つけることができなかった。

なので、自分的には「股割れ」=「売春婦の別称」以外の解釈を探る余地はある、と感じている。

そこで、この「股割れ」という言葉を眺めてみると、やはりここにも、木に竹を継いだような唐突感、不自然さがなくはない。

そもそも、「売春婦の別称」としては、「娼婦」「売女(ばいた)」とかの言葉が他にあるのであって、「こんなことをしたのは、トミダの売女(ばいた)だと思います」などと表現すればそれで済んだはずだと思うのだが、この表現では、何か都合が悪かったのだろうか?

作者は、「売女(ばいた)」「娼婦」という言葉を直接的に使ってみせるのが嫌だったのだろうか?

作者が「股割れ」という言葉を持ち出してきたことの意味を考えてみると、やはりここでも、その言葉に二重の意味を持たせている可能性つまり「ダブルミーニング」の可能性を検討してみないわけにはいかない。

仮にこの言葉に単に股の割れた何か、股の割れっぱなしの何か、そこから連想される「股のゆるい女(売春婦)」という表面的な意味とは別に、「もう一つの意味」が隠されていたのだとすれば、作者はこの言葉を好きこのんで持ち出したのではなく、「持ち出さざるを得なかった」ということが推測される。

その持ち出さざるを得なかった言葉(股割れ)に、一体、どんな意味が込められているのかということを考えてみると、やはりそれは、「作者がこの怪文書によって告発しようとした人物の名前」ということが真っ先に想像され、さらに言えば、その人物の名前が、またわれと読めるのではないか、ということが想像でき、その人物が「作者本人」である可能性もある。

この想像が的を射ているかどうか、それは不明だが、仮に的を射ているとして、このあたりの作者の思考の流れを考察してみる。

まず作者は、女児失踪に関して、ある人物を告発することを決意した。

しかし、その人物本人か、そのバックにいる何者か(組織?)による報復を恐れる余り、告発文の中では、その人物の名前をズバリ書くことができなかった。

そこで、どうするべきか、悩みながらその人物の名前を見つめているうち、それが読みようによっては

「ま」「た」「わ」「れ」(順不同)

と読めるということに気がついた。直後にそれは「股割れ」に変換された。

「股のゆるい女のイメージだ」

容易にそれは「売春婦」のイメージへと結びついた。

作者の脳内でビッグバンが起きた瞬間だったかもしれない。

「股割れ」・・・この言葉を着想の原点として、イマジネーションは膨張する宇宙のように広がっていった。

その宇宙の中で、「股割れ」という中心太陽の周りを、犯人を暗示する様々の言葉がきら星の如く輝きつつ公転している・・・そんな妄想を結晶化したのがこの怪文書だった、という風にも想像できる。

そこで、「股割れ」という言葉にどんな名前が暗示されているか、それを考えてみると、まず、「股割れ」の読みは「またわれ」であり、この仮名に該当する漢字として思いつくのは、「「真」「間」「麻」「馬」「田」「和」「又」「俣」「吾」「我」「希」あたりがそれと思われる。

いずれにしてもこう解すると、作者が、「コンナコとヲシタノハ トミダノ股割レ トオモイマス」という一節で意図したのは、実は、「こんなことをしたのは、富田の●●●●(個人名)だと思います」ということになり、それはつまり、他愛のないセンテンスの中に暗喩のような形で「被告発者の氏名」が暴露されていたということであり、「股割れ」=「売春婦」と解するよりも、こちらのほうが告発文の文言の解釈としてはしっくりくるかもしれない。

この解釈を前提とすれば股割れが売春婦(女性)ではなく男性という可能性も出てくるのであり、仮に「股割れが男」であるなら、後に続く「売春婦の物語」は作者の「虚構」だということになり、読む側は、その可能性を念頭に置きつつ、文書を読み進む必要があるかと思う。

ここで、「告発文書で、虚構の物語をでっち上げるものだろうか?」という疑問が湧くかもしれないが、これに対しては、

「告発文書だからこそ、虚構の物語をでっち上げる」ということも考えられる。

なぜなら告発する側には、場合によっては命の危険があり、身バレは、すなわち「報復」を意味することもあり、それ故に作者は、女児やその父親の名前さえ曖昧にした以上に、「話の筋そのもの」さえも虚構(架空の話)に仕立てることで、自らの素性に辿り着かれないよう万全の配慮を施したかも知れない。

その一方で、「虚構の中にも、犯人を暗示するワードを散りばめておきたい」という気持ちがあり、つまりは「暴露への欲求」と「身バレへの恐怖」、この二つの相反する気持ちのせめぎ合いの中で形作られたのがこの怪文書だった、と見ることができるかもしれない。

仮に股割れが男だとすれば、後に続く怪文書中の表現、例えば、

「一匹のメスになっていた」「股を割ってくれるオスを探し続ける毎日」

とりわけラストの、「我が股を割るときは命がけ。これが人だ。このときが女の一番尊い時だ」

などという、見ようによっては白々しいほどに股割れは女であることを強調しているかのような部分は、「作者の素性を悟られないようにするためのカモフラージュだった」と見ることができるかもしれない。