R7.2.22 気の瞑想
朱剛先生の瞑想の中では、基本中の基本、基礎の中の基礎、最も大切な瞑想。
いろんな瞑想を習っていますが、この 気の瞑想 は外せない。
気の瞑想 なので 気 を大変重要視します。
気がどういう物かは一旦置いといて、呼吸に合わせ、気を丹田に落とすのが基本です。
朱剛先生から説明がありました。
気というものは、仏教よりも、道教由来の考え方だそうです。
道教由来の気功は、大変、健康を重要視します。
できるかぎり、長生きしようと言う考えです。
気を全身に張り巡らせ、健康になろうとします。
かたや仏教系は、悟りの境地を求めるなど、気持ちを重要視した体系です。
しかし 気 を重要視しても 気持ち を重要視しても、結果健康になることは間違いありません。
禅宗なども、道教的な考え方を取り入れています。
チベット密教などは、やはり気に相当する考え方があります。
もっと古くは、インドのヨガにはやはり気があります。
もっともっと古い話をすれば、バラモン教にも、気の考え方があるそうです。
たらたらと書きましたが、要は何系の瞑想だから、こうだとか、〇〇系の瞑想だから、こうだと言うのでは無く、瞑想をしていれば、自ずと同じ様な事に気づき、有効な物であれば、どの瞑想系統であっても、似たような方向性を示してきます。
歴史的にみて、結果が保証されているものや、科学的根拠に基づいているものであれば、それは、瞑想にとっては有効なもので、我々の流派とは違うとか、伝統の物でないから嘘っぱちとか、そんなケツの穴の小さいことを言ってないで(お下劣表現でスイマセン)、今後のために合理的で、効率的な瞑想体系にしていくべきだと思います。
気の感じ方には、大雑把に三段階あります。
最終的には、天人合一といわれる境地に至ります。
個人的な表現をさせていただくと、自分と外界との一体化、融合かなと思います。
言葉で言うと 天人合一 とか 悟り とかの表現になりますが、そんな物は、ただの漢字の羅列で、体験しなければ何の意味もありません。
そういった状態になれば、自分の言葉で話せるだろうとおもいます。
要は基本を抑え、コツコツと長い時間をかけ、練習するしかないと言うことです。
では、長い時間コツコツと練習するにはどうすればいいのか?
それは、気功を好きになることです。
好きだから練習してしまう。
そういった状況まで自分を導ければ、後はレールの上を走るだけです。
今回は、座り方に関するレクチャーがありました。
椅子に座る時、胡座、結跏趺坐、それぞれに好ましい手印。
仙骨の角度の違いによる座り方、足が支える底面積の違いによる差、背骨の前項角度など、かなり実践的なコツを教えていただきました。
気の瞑想の基本は、とても単純ですが、そこには歴史的に練り上げられた知恵があります。
気を、呼吸に合わせて導く、と言う功法です。
吐く時に、気を落とす、要は呼吸の流れとは別の方向で気を導くということです。
先人は吐く時に逆の方向に気を導くと、より気感を感じやすいという事を発見し、各流派に取り入れられました。
この逆向きという事に、ピンと来た人もいるのでは?
実はこの考え方は、武術の呼吸とも共通する部分が含まれています。
同じとは言いませんが、似たような部分が多く含まれます。
本当に、ダラダラ書いてしまったので、簡潔に今日の瞑想。
私は、椅子座りの瞑想ですので、先生のレクチャーのとおりに座ります。
今日は座った瞬間から、非常に良い気分でした。
身体に、チリチリとした痺れるような感覚、徐々に全身の重みが増しました。
空気に水飴のような粘りを感じます。
気功態と言った状態に、近いと思います。
気功態に入り、まぶたの裏には画像が浮かんできます。
私は、景色がよく浮かんできます。
自分で見たい景色ではないので、潜在的な意識の中から、浮かんできているのだと思います。
今日は、横山大観の絵の様な景色が浮かびました、鹿も一頭見えました。
その後、珍しく人が現れました、何故か 吉岡里帆 で眉間にシワを寄せて、怒っています。
私は どん兵衛 より 赤いきつね と 緑のたぬき派 なので、その事を怒っているのだろうかと、どうでもよいことを考えました。
以外に、俗っぽい画像で驚きました。
その後は光が現れたり、白い雲のような物が現れその後、身体の感覚を喪失しました。
身体の感覚を喪失すると、時間の感覚が喪失することが多く、あっという間に時間が経過します。
先生の声が掛かったときには、1時間余りが経過っしていました。
瞑想アルアルだと思います。
こうなると、妙にスッキリします。
憑き物が、落ちたような感じです。
いい瞑想だと思います。
今日は、タラタラ書きすぎたので、ここまで。
站樁して寝よう。
本日のデザート、牛乳寒天とジョア