心の瞑想 3日目

本日の参加者は、私一人。
よって、朱剛先生と二人きり。
濃い目の瞑想会が始まる。

しかし、変わらず 蠕動 から始まる。
自分の、動ける範囲より、少しだけ大きく動く。
そうすることで、通常より筋が伸び、血流が良くなる。
そして  蠕動動作 の唯一の弱点、下半身運動は、別に動きを加える。
千変万化 蠕動 の面目躍如 蠕動 を自分流にカスタマイズする。

気の瞑想に入る。
瞑想歴10年程になるが、未だに雑念は湧く。
今日も、そんな始まりだった。

そんな時は、基本に立ち返る。


呼吸に合わせ、気を丹田に降ろす。
徐々に集中力が増してくる。
瞼の裏側が真っ白になる。
雲の中にいるような景色が広がる。
光の瞑想で表れる現象。


気感が満ちて来ると、このような現象が表れ、とても満たされた気持ちになる。


気の瞑想 と 光の瞑想は、現実的には入り混じります。
その後、見えないベールで全身に纏うような感覚になってくる。
五感を遮断することが上手くいくと、外界との自分との境界がはっきりと線引できる。


良い感覚を引き継ぎ、心の瞑想に入っていく。
一点を見つめるが、瞳孔が開いたり、閉じたりするのが、自分で分る。


景色の明暗が周期的に変化する。

景色がセピア色になったり、どうかすると真っ暗になったり、瞼も開いたり、閉じ気味になったり動いている。


しばらくすると、瞳孔も瞼もカッチリと決まってくる。
半眼になり、意識が朦朧としてくる。


教室の扉にカマキリがいる。

いる訳が無い、冬だし、東京だし。
幻覚があらわれた。


意識がギリギリの状態を維持しているので、幻覚がでてくる。
その後も、パソコンのキーボードが床面に表れ、アクエリアスレモンの2Lペットボトルが目の前に表れる。


幻覚は、ビックリするほど鮮明な画像で表れる。
幻覚なので、意識の状態が少し変わるとスーッと消えていく。
幻覚は確かに表れるが、心地よい感覚に集中しているので、他ごとのように、冷静に観察することができる。
言葉にすると あっそうなの となる。


この幻覚の処理を誤ると、精神的に間違った方向に進み、取り返しがつかなくなる。

 

臨済宗のには以下の様な教えがあるそうです。

 

仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺し、羅漢に逢うては羅漢を殺し、父母に逢うては父母を殺し、親眷に逢うては親眷を殺し、始めて解脱を得ん

 

禅を組んでいる時に、色んな幻覚が出てきても殺してしまいましょう的な、禅の教えです。

何かに心が囚われている以上、悟りは開けないと言う教えです。

あるがままとは程遠いと言う事です。

 

だが、幻覚とはいえ、殺すことはないと思います。

例え、方便でもやり過ぎです。

 

自分的には、思春期の女子高生ぐらいの対応で良いと思います。

 

仏に逢ったら → マジうざいんですけど

親にあったら → 超、臭いんですけど

 

そのぐらいで良いと思います。

 

そう言った意味では 女子高生 には瞑想の才能があると思います。(本当か?)

確かに彼女達は、あるがままだ、悟っているかも知れん。


自分達は朱剛先生から、適切なタイミングで指導を受けているので、幻覚を客観的に観察することができる。
正直、幻覚が出ているようでは、自分の瞑想もまだまだだと思います。
反省、反省、精進いたします。

瞑想愛好家の為に、もう一度言っておきます。
幻覚などは、瞑想をすれば普通に起こります。
過度に恐れる必要はありません、過度に喜んでもいけません。
しかし、幻覚に引きづられるよう興味を持ち、そちらの方向性に進むと、魔道が待っていて、破滅の道へと進みます。
瞑想は大変、益もありますが、危険な部分もあります。
シッカリとした先生に付いて、瞑想を指導してもらいましょう。

我流には危険が付き纏います。

午前は、朦朧気味の瞑想であったが、シッカリ集中できました。
ある程度 あるがまま の瞑想を、実践できたと思います。

お昼ご飯時には、先生と宗教から派生した瞑想気功について、色々と質問、お話を伺いました。

現在、多くの瞑想が、仏教や道教の功法を参考としています。
禅密気功もその一つです。


禅密気功も、仏教の功法、修行の体系を参考にはしていますが宗教ではありません。

仏教であれば、本当の意味で修行するのであれば出家は必然で、生活も、規則に縛られたものになります。
そもそも仏教では、目指している物や、状態が私達とは異なります。

禅密気功が目指すのは、たった一つです。
身体と心の健康です。


その為に、仏教の功法を流用しているに過ぎません。
今風に言えば 良いものはジャンジャン使ってしまおう! となります。


山に籠もる事を、否定はしません。
でもそんな事ができるのは、本当に覚悟がある人か、はたまた狂人か、よほどの金持ちで何をしていても良い人か、リタイヤして理解ある家族に恵まれた人ぐらいです。

それなりの大人として、社会生活をしている以上、社会生活を犠牲にしてまで、修行に取り組むことは、一つの無責任と言ってもよいと思います。


働きながら、瞑想に取り組むためには、時間的、金銭的制約もありますので、合理的で、科学的にも説明できる、明確な体系がなければなりません。
それは、伝統の物であっても例外ではありません。
間違いは正し、良い考えは取り入れる。
常に変化し、その時代に受け入れられる。
それが本当の伝統だと思います。
そうでなければ、いくら伝統のものであっても、やがて時代に淘汰されます。

与作でも山で木を切るのです。

ヘイヘイホー

 


いい大人が、山に籠もって瞑想に勤しむ。
社会となんの繋がりもありません。
何の損もないですが、なんの徳もありません。
残念ながら客観的に見れば、単なる一人よがりです。
自分たちの瞑想は、より良い社会生活を送る為の、瞑想です。

社会とも、人とも積極的に関わっていきます。

自分だけの世界に籠もり、自分だけ良ければ良いと言った瞑想ではありません。

どんどん、普通になっていく瞑想です。

今日も、だいぶ脱線してしまいました。
申し訳有りません。

さて、昼寝後の瞑想に時間は進みます。


昼からも瞼の裏に、一筋の光が差し込みます。
光の瞑想の状態です。
気が満ちている証拠でもあります。


そのまま 心の瞑想 に入ります。
かなり強い 心地よさ があります。
正直 快感 と言って良いレベルです。
特に顕著なのは背骨付近、それと密処です。


この状態になると、相当の事があっても、心地よさは失われません。
集中力は自ずと快感に注がれ、そこからは外れません。
心の瞑想の真骨頂の一つです。


身体の状態ともリンクしています。
見える景色がセピア色に染り、景色の輪郭が消える事があります。
一瞬、目は開いていますが、景色が消えます。
相当、内的に集中しています。


景色の消えたのは一瞬でしたが、その瞬間に白昼夢を見ました。
 

小学校5、6年生ぐらいの寡黙で体格のよい小学生が、紺色の半ズボン、白色の体操服、赤い帽子姿で立っていました。
何か話したそうでした。
彼の胸には 藤東 の名札が縫い込んでありました。


しかし、一瞬で、景色のある世界に戻ります。

藤東クン悪いな、他の瞑想であれば、この様な現象を何と言うのかは分からない。
人によっては、お告げだと大騒ぎするのかもしれない。
でも禅密気功では他愛もない、どうでもいい出来事なんだ。
残念ながら、君と遊んでいるような時間はないんだ。
こんなところで、まだ立ち止まる訳にはいかないんだ。
禅密気功の瞑想はもっと、もっと奥深く、そして、もっと、もっと楽しいんだ。

よって、藤東くん は無視されてしまいました、チャンチャン。

その後も幻覚は続き、教室のドアに絵が表れたり、はめ込みガラスが浮き出して、オブジェクトの様になったりとか色んな事が起こり、教室が美術館のようになる。

そのうち スタンド でも出てくるんじゃないだろうな?

ジョジョの奇妙な冒険か?
まー、出てきても無視ですけど。

時間は進み2回目の昼寝。
3日目だが、全くもって疲れ無し。
よって、寝れませんでした。
手練れの人なら、シッカリと切り替えて寝るのかもしれない。

自分もまだまだだな。
ただ、横になっていても、妙に薄ら気持ちいい、先程の瞑想の余韻がまだ残っている。

最後の心の瞑想は、サラリとアッサリした瞑想でした。
欲張ってもしょうがない。
サラリとはしていましたが、落ち着いていて心地良く良い瞑想でした。

今回は4日中3日の参加ですので、これにて終了。


明日のドブサライさえなければ、4日目も参加できたのに・・・
しかし、地域の行事も大切です。
地域のコミュニティあっての自分たちです!

目指せ、普通の中の普通。


これにて3日間 心の瞑想 終了

 

では、また。