地元でできる瞑想は、朱剛先生に教えていただいた瞑想です。
この時点で、ヨガ、マインドフルネス、禅に体験的に参加していましたが、自分の時間とお金を割いて、参加する価値のある瞑想は、東京の禅密気功しかありませんでした。
結果、黙々と禅密気功の瞑想を行うことになります。
徐々にですが、瞑想と呼んで良い初歩の状態には達する時間が増えてきていました。
最初は40分、60分と瞑想状態に入るの時間が必要でしたが、日々の練習と言う物は大したもので、瞑想状態になる時間は徐々に短くなっていきます。
40分が30分に、30分が15分へと、徐々に瞑想状態に入るまでの時間が短くなり、15分~30分で瞑想の状態に入ることができるようになっていきました。
しかし、瞑想の状態は身体の重み、安定感、心の重厚感、静けさ、落ち着きは再現できるようになってはきたものの、瞑想の質としては今までとほぼ同じの物でした。
自分の瞑想はここまでなのか? 武術の一面から瞑想を始めた私にとっては、この状態の精神状態では、武術として使い物になりません。
寝る寸前の頭がボーっとした状態では戦う事は出来ないからです。
瞑想自体は心地よかったですが、ジレンマに陥っていきます。
しかし、捨てる神あれば拾う神ありです。
時間と言う物は大したものです。
今までと違う瞑想状態が発現します。
今までの経験とは真逆の瞑想状態が表れます。
今までの瞑想は身体的には重く、安定、心も重厚で落ち着いている状態でした。
しかし、その日現れた状態はそうではありませんでした。
身体は軽く、サッパリしています、心は自由で囚われの無いような状態でした。
例えるなら冬の放射冷却の朝を迎えたような気持ちです。
驚くほど爽快で自由な感じがします。
しかし、この状態に留まれたのは、ほんの少しの時間でした。
ひょっとするとこれが 深い瞑想 の入り口なのか?
心と頭は今まで経験したことが無い、明晰でキリッと締まり、何事にも瞬時に対応できるような気がします。
この状態であれば武術に応用できると思いました。
しかし、残念な事に、この状態は自分でコントロールできません。
回数にしても数回しか発現してませんし、本当に短い時間しか、そこに留まることができませんでした。
しかし、この瞑想は自分にとっても希望になった事は間違いありません。
今でも、この貴重な体験を追い求める自分がいます。