地元に帰ってからも、地道に瞑想をしました。
瞑想について私は非常に気になる表現がありました。
朱剛先生が度々使われる 深い瞑想 と言う表現です。
浅い瞑想しかできない私にとっては 憧れの瞑想です。
しかし、深い瞑想に到達できた訳でもなく、正直その状態がどのような状態なのかサッパリ分かりません。
私がこの時点で経験している瞑想感覚は 身体に大変重い感覚があり、驚くほど安定感がある物で、精神的な面でも重厚な感覚があり、意識が朦朧とするような感覚があり、睡眠に入る寸前の状態と言ってよい物でした。
非常に落ち着いていて、静かで、とても心地よいものでした。
この身体感覚、心の状態の延長上に 深い瞑想 があるのだろうか?
しかし、自分で判断できる訳でもなく ? の状態が続きます。
そんな時に、地元で 深い瞑想 と言う表現を使われる ヨガの先生に出会います。
早速、体験で教室に参加しました。
教室自体は殆どが、理論的な勉強会であり、あまり瞑想には時間を割いていませんでした。
理論勉強もガチガチの昔の理論で、現代に当てはめるには相当無理があり、正直宗教と呼んでよい内容でした。
教室の終わりに 10分 程、瞑想を行いますが、自分の経験上、10分やそこらでは瞑想状態になることは無い事を、経験上知ってしまっているのでガッカリしました。
それでも先生はやたら 深い瞑想 と言う言葉を使ってみえました。
瞑想後は 頭がボーっとしていますので車には気を付けてお帰りください と親切な言葉をいただきましたが、この頭がボーっとしてしまうような睡眠手前の瞑想状態は、既に経験済なのです。
どうも、この先生の使われる 深い瞑想 と言う表現は、それほど深い境地の事では無いと、自分なりに判断しました。
勉強会としては、かなり本格的な哲学講座であったと思いましたが、私は単に理論家になりたい訳では無く、身体を通して伝わった理論を理解したいと言う、方向性であった為、この教室への参加は一回きりとなりました。
逆に 深い瞑想 と言う物は、今の自分の瞑想とは全く違った状態なのではないかと思うようになりました。
しかし、できることと言えば日々、黙々と瞑想するだけです。
時間に自分を委ね、短期の集中講座にしっかり通うと、再度決心しました。