太極拳の歴史と言えば 楊式太極拳 で終わりと思っているあなた・・・
確かに楊式系の太極拳は、大衆化し世界に広まった。
しかし、広まる事で、太極拳の本質は薄まってしまった。
楊無敵、こんな言葉すらほとんどの人が知らない。
今日は Mr.太極拳
この人抜きにして太極拳は語れない。
私は太極拳を20年やっていますのよ、今日は白鶴亮翅(バイフーリャンチ)と倒巻肱(ダオジェンゴン)を少し嗜みましてよ、オホホなどと能天気にお話しているあなた。
この人の名をご存じか?。
もしこの人の名前も知らないのに、太極拳を嗜んでいるなどと言っているあなたは、恥じなければならない。
太極拳が太極拳と呼ばれる理論を築きあげた巨人、その名を 武 禹襄 と言う。
武 禹襄
ここまで山西省の民間武術が陳家溝に移り、少林寺の影響を受けながらも陳氏の拳法になった事を書いた。
それが 楊 露禅 に伝わり、楊式太極拳になり、それに伴い陳氏の拳も多分、陳式太極拳と呼ばれるようになった。
しかし、楊氏の拳も、陳氏の拳も、そのころから太極拳と呼ばれていたかは大変怪しい。
要するに太極拳の定義である。
太極拳の定義は実はハッキリしている。
王 宗岳 の 太極拳論 武 禹襄 の 理論書 を守り拳が構成されている事である。
※王 宗岳は太極拳の人ではありません。
いくら強くても、この二人の理論から逸脱しているのであれば、太極拳ではない。
太極拳は各流派で風格が相当異なるが、この二人の理論で拳が構成されているのであれば、形が違っても、技の順番が違っても、それは太極拳となります。
さて 武 禹襄 についてです。
この辺からは、出典がハッキリ示せないので参考程度に読んでほしい。
武 禹襄 は 楊 露禅 の、パトロンであったとも言われる。
楊 露禅 が陳家の拳を学ぶ為に、色々と援助したと言われる。
パトロンであった 武 禹襄 は 楊 露禅 に、陳家で学んだ拳を教えてほしいと言ったらしい。
パトロンであった、武 禹襄 には、要求するだけの権利がある。
当然、楊 露禅 は 武 禹襄 に拳を教えた。
ある程度、ある程度・・・
武 禹襄 は全部教えてくれよ、と言ったらしいが、楊 露禅 は全てを教えなかったと言う説がある。
武 禹襄 は、じゃあもういいよ、陳家溝にいって自分で学ぶと言う事になり、陳 長興 から拳を学ぼうとするが、色々な理由から拳を学ぶ事が出来なかった。
そこであきらめる 武 禹襄 ではなかった。
陳家溝ではないが 趙 堡鎮 に行き 短期間ではあるが 陳 清萍(小架 ここ大事)から、陳氏の拳を学び、自分の太極拳を完成させる。
太極理論に基づいた 武式太極拳 誕生である。
武式太極拳は、楊式系と言われることも多いが、伝系的には、経歴を見ても楊式系に書かれるのではなく、楊式と横並びか、陳式系でも、いいのではないかと思う。
その証拠に、武式太極拳は架式が小さいく(小架、陳 清萍の影響)、結構メリハリがあり、姿勢が実戦的である。(楊 露禅の太極拳も小架であったと言う説がある、今の楊式は大架となった)
武 禹襄 は大変裕福でもあり、秀才でもあった。
そして、兄から入手した 王 宗岳 の文章を研究し、太極拳の理論書を完成される。
王 宗岳 の文書には 太極 と言う文言が書いてあり、その太極を以て、太極拳と言い出したのが、太極拳の始まりではないかと言われている。
ここまで書くと、武 禹襄は理論家で実戦では、弱かったのではないかと言う人もいるが、拳を通し、文書が書ける人は、それ相応の境地にならないと理論書はかけない。
逆に分かる人が読めば、その人の境地が分かるらしい。
インテリでもあった 武 禹襄 にはこれと言った武勇伝はありませんが、客人の武術家と腕比べをしても、負ける事は無かったそうですし、楊式太極拳二代目の実戦派 楊 班侯 も 武 禹襄 を慕い教えを受けた事からも、達人の域であったと思われる。
ただ、裕福であった、武 禹襄 は武術を生業とする必要もなかったし、当時のインテリ層には、武術は蔑まされたものでもあったので、広く伝わることは無く、一部の親族だけに 武式太極拳 は伝わった。(武式が大きく広がらなかったのはこのような理由もある為)
ただ、さすが太極拳の理論書を作り上げたの流派だけあり、無駄がなく本当に良い太極拳だと思う。
個人的には、この武式太極拳が最も好きである。
ただ伝承がほぼ無い為、習うまではいかなかった。
残念。
これにて 武式太極拳 終了。
さあ、いよいよ誰も期待などしていない 太極拳の歴史 最終章に突入 天下第一掌 と言われた達人です。