11月19日~23日に行われた 心の瞑想会 について総括として纏めてみたい。
こんなまとめをして興味がある人がいるのか、はたまた人の為になるのかは?だが。
瞑想、禅を嗜んでいる方、興味のある方の参考になればと思う。(自分の為でもある)
個人の体験なので、何言ってんだ、おかしいじゃないか、いろいろ意見はあろうが、良い悪いは別にして共感や、批判の対象にしていただければ幸いである。(でも体験は覆らない)
今回 瞑想、禅と呼ばれる物は、体験の文化である と身体で強烈に感じた事である。
朱剛先生がよく言われる、お茶の味は、お茶を飲んだ人にしか分からない。
どれだけ言葉を尽くしても、お茶を飲んだ事がない人に、お茶の味は言葉で伝えることはできない。
鈴木大拙が残した言葉に以下のものがある
ここに禅の鍛錬法の一風変わったところがあるのだ。
それは真理がどんなものであろうと、身をもって体験することであり、知的作用や体系的な学説に訴えないということである。
今回の瞑想会がまさにそうだ。
何の知識がなくとも、正しい意識、正しい姿勢などの基本要点を押さえれば、時間は掛かるが、やがては求める境地の体験ができる。
ひょっとすると余分な知識は、瞑想、禅には邪魔になるのかもしれない。
瞑想、禅で得られる体験は、どんな人にも体験可能な事だと思う。
以前、朱剛先生のブログで 朱剛先生はあまり、教えられることが無く、不親切だ と言われる事があるとの記事があった。
何を求めるかによるが、瞑想や禅などをとおし、奥深い体験をしたいのであれば、言葉は邪魔になることがある。
体験が無い時期に、余分な知識があると、迷う。
色々教えてもらえれば、とても親切な方ねとなり、その人の知的欲求は満たされ、教養と言う物は身に付くだろう。
そんな口先だけで語れる軽い知識は、ジュンク堂でちょっと探せばいくらでもある。
しかし、瞑想、禅の世界であれば、いくら知っていようが、それに伴う体験が得られていないのであれば、知識などに何の価値も意味もない。
上っ面の言葉を並びたてられても、深みは感じない
飲んだ事の無いお茶の味をツラツラと語る行為だ。
飲んだ事の無いお茶の話をしたがる人は世には驚くほど多い。
教える親切、教えない親切 がある。
一般の人は教えてくれる人は良い人で、教えてくれない人は不親切な人となることが多い。
だが、教えないからこそ親切な場合がある。
教えない親切な人はずっと待っいる。
その人が必要な経験、スキルを自分自身の力で手に入れるのを、爪を噛み、手伝ってしまいそうになるのを必死で我慢して、その人が這いあがってくるのを、ずーっと待っている。
その心労は、本人よりもつらい物であるかもしれない。
先生、師とは見ていないようで、本当によく見てくれている。
瞑想や、禅の指導者は見えない心の動きが観えなければ、人を指導する資格がない。
もう一度言っておく 瞑想や、禅の指導者は見えない心の動きが観えなければ、人を指導する資格がない。
そんな指導ができる人は世に一握りであると思う。
そして這い上がってきたときに、初めて本当に適切なタイミングで一言声を掛ける。(それは心の状態が観えているからである)
その一言を掛けられた時、言葉を掛けられた本人は気づく。
今までずーっと我慢して待ってくれていたんだ。
本人の為に最高の理解を得るために、話したいのを我慢して、手を貸したいのを我慢して、最高のタイミングでボソリと一声掛ける。
声を掛けられた本人は、今までの出来事の意味が、氷が解けるように理解する事ができる。
私の言う理解は、脳の理解だけではない。
何より大切なのは、身体と心をとおした理解の事である。
これは体験を通さないと、何を言っているのかサッパリ分からない。
是非とも、是非とも、この一端を体験してほしい。
実は4日目の瞑想の終了時にある言葉を掛けられた。
その時はあまりの驚きに、面食らってしまって動揺したが、少し日にちが経ち冷静になったことで、その意味が深く理解できるようになった。
私はまだまだだが、その一端はやはり理解したのであろうと思う。
そして今回気づいたのが、適切なタイミングで先生の助言がとても大切だと気付いた事である。
瞑想や禅は暗闇の洞窟を歩くような行為である。
適切な時期に先生である方が、方向性を示す光を示さないと、習っている者は迷宮に入り込み、取り返しがつかなくなる。
1日目に幻覚を見た時、その体験は非常な驚きであったため、思わず先生に報告してしまった。
その時先生が言われたのは、そんな事は気にしないでください。
そんなことよりも穏やかで、落ち着いていて、心地よい気持ちに集中して深めてくださいと、バッサリ斬られた。
多少は褒められる体験かと思ったが、そんなものに興味を示し、執着してはいけないと言われた。
しかし、4日目の経験により、この幻覚を喜ぶ行為が、迷路に迷い込む体験の入り口であったと分かった。
先生の一言が無かったら、私は間違った道に、入り込んでいたのかもしれない。
世の中には適切な時期に、適切な助言が得られず魔道に入り込む人がいるのだろうなと漠然と感じた。
こういった事からも、瞑想や禅を嗜む人は、しっかりと指導ができる先生、師を仰がなくてはならない。
武術を嗜む私たちの世界では 三年かけても良師を探せ という格言がある。
本物が習いたいのであれば、近いから、安いからと言った安易な基準で先生を選ばず、十分、時間を掛け熟慮した後に先生を選べとの格言である。
武術の世界だが、先生と呼べる資格のある人は本当に少ない。
残念ながら、私が自分の足で体験してきた事実である。
しかし、武術においても私は良師に出会うことができた、一生の師となる方である。
瞑想、禅の世界であればなおさら、良師を選ぶのは滅茶苦茶難しい。
そもそも瞑想、禅は目で見えたり、形がある物でないので、人の心の状態が分かる人でなければ指導ができない。
私が思うに、瞑想、禅の世界で良師と呼ばれる人は 知る者は語らず と呼ばれる人だ。
やたら語る人は瞑想、禅を実践する人たちではないのだろうと思う。
何故なら、瞑想、禅は語って指導できるようなそんな簡単なものではない。
そして、先生が良師であると分かるのは、自分がある程度のレベルに達した時、ボソッと言われる 一言 の時に初めて分かる。
それまでは分からない。
ここまでくると良い先生に出会うのは、自分の勘か、縁に頼るしかない。
皆さんに良縁があることを願うのみである。
自分は朱剛先生と初めてお会いした時、何かを感じた。
その瞬間の事は今でもハッキリ覚えている。
どんな感覚かと聞かれて言葉で言い表す事はできない。
しかし、何とも言えないものを感じた。
その勘は当たっていた。
自分の直感もまんざらでもない。
これも今回気づいたが、自分の志の濃度についてである。
一般的には 信じる と言う言葉になる。
自分の習っている物を信じられるか、自分の先生を信じらかの問題である。
信じる事が出来れば、素直に物事に取り組むことができる。
信じれば雑念や余計な疑う気持ちが生じない。
心という物は本当に繊細で、少しの気持ちの揺れが結果に悪影響を与える。
疑ってしまえば、心は必ず揺れる。
信じるためには、信じるに足る経験をすることである。
しかし、何でもかんでも信じれば良いわけでもない。
良い先生とのを良縁を願うばかりである。
信じることができれば、地味で退屈な練習にも取り組むことができる。
信じることができない人は、静かにただ座れば良いと言われれば拷問に近いのだろうが、信じている私たちにとってはワクワクするような時間である。
信じる、信じないで同じ行為であっても、受け取り方は全く異なる。
そして最後は禅密気功の体系の確かさと、奥深さについてである。
日ごろから朱剛先生が、禅密気功、瞑想はとても深みがありますよと語ってみえた。
その話は事あるごとに聞いていたが あーそうなの 程度であった。
短期集中コースに参加すれば、毎回気持ちが良かったり、新たな体験があったが、正直、深みは感じなかった。
しかし、今回の体験で禅密の井戸までたどり着き、井戸の蓋を朱剛先生に取っていただき、井戸の深さを見せていただいた。
これは物の例えだが、体験を通して禅密の神髄の一端を垣間見た気がする。
宝物と言っても良い物だった。
しかし、井戸の底は全く見えない。
どこまで深いんだ。
私が捕まえたのは禅密の尻尾であり、本体はまだまだ見えない。
孫悟空がお釈迦様の掌の上を飛んでいるようなもんだ。
しかし、深みの一端は経験した。
あー自分の練習はここから始まるんだな、初心はここにあるんだな。
活在当下 そんな気持ちにさせてくれた今回の 心の瞑想 でした。
終わり