今回の記事は長くてクドいので、うっとおしいな思った方はページを閉じていただきたい。

 

四日目

 

いつもの瞑想会だと、疲れがピークの四日目だが今回はそんな感じは無い。

今日はいけるかもしれない!

 

朝一の 蠕動 も快調だ。

 

そのまま 気の瞑想 に入る。

最初は、呼吸に合わせ丹田に気を導くのがセオリーだが、少し丹田に気を落とすが、面倒くさくなってしまい、そのまま放置しておく。

そもそも、ある程度気感があれば、どうしても丹田に拘らなくてもよい。

放置してあった身体から気感が発生する。

背骨辺りから中々強烈な感覚がが発生する。

前頭葉、脊髄がとても気持ちが良い。

背骨はギュッと、前頭葉はモワッとした感覚がある。

今日も磐石な感じがする。

どうして、座っているだけでこんな感覚が発生するのだろう?

とっても気持ちが良いので、このまま終了時間の17:30まで放っておいてほしいぐらいである。

 

しかし、何かの拍子で咳が出て、今まであった、穏やかで、落ち着いていて、心地よい感覚が一瞬で何処かにいってしまった。

公園で餌をつついている鳩の群れに、石を投げると、みんな一瞬でいなくなるがそんな感じでとても残念だ。

気は本当に繊細である。

しかし、餌さえ残っていれば、鳩は戻ってくる。

十数秒待っていたら、気感も元に戻ってきて充実した感じに戻った。

これまた、不思議であるが、最近は感覚を再現できるように成りつつはある。

 

 

心の瞑想 に移行し目を開く。

目を開くと、気感が目減りしていくような感覚になるが、大切な感覚はしっかりと残っている。

どんどんサッパリ、スッキリしていく。

気の瞑想 は 豚骨スープ のように濃厚だが 心の瞑想 は 鰹と昆布で取った出し汁 のようで旨味だけが残っているようで、あっさりはしているが旨味はしっかりとある状態だ。

穏やか、と落ち着く、心地よい 感覚は失われていない。

キョロキョロしても、首を動かしても、手印を変えても、心の状態は全くぶれない。

視点を移していろんな物を見てみる。

意図的に見ても、心は振れない。

音に意識を向けて見る。

工事の騒音が凄い、配管がぶつかる音、ドリルの音、トラックがバックしている音、そうかと思うと教室内の音楽も同時に聞こえていて、写真も見ている

それでも心は全く振れない。

 

そして、落ち着いてそれらを観察している自分もいる。

分身の術を使って、自分が何人にも分かれ、同時に仕事をしているようである。

しかし、分身を統括しているのは、穏やかで落ち着いて、心地よい一人の自分である。

こんな感覚で外の世界と接した事がなく斬新で、新鮮で衝撃的な体験だった。

 

自分は今まで、何を見て、何を聞き、何を感じてきたのだろう。

何も見ず、聞かず、感じてこなかった驚愕の事実を突きつけられた。

もっと早く瞑想に出会うべきだったな。

 

昼食は今日も先生と二人でカレーを食べに行った。

 

今日は伝統に対してのお話を伺い、唸る物があったが、ここまでブログの字数を使い過ぎているので、内容は省略。(内容は今日も面白かったですよ、聞きたい人は朱剛先生に直接聞いてね)

 

今日の瞑想会のピークと思われる、午後の部へ突撃していきます

 

昼からの瞑想は書くに耐えない、大失敗瞑想であった。

根が卑しい私は、いつもお昼ご飯を食べ過ぎる。

そんな感覚の差さえも瞑想には影響する。

気が散って、浮わついている。

何度も同じ失敗をしてるのに、反省の極みである。

 

だめだ、昼一の瞑想は諦めよう。

 

昼一の瞑想は失敗する事が多い。

 

今まで、何とも思っていなかったが、昼食食べ過ぎ問題は、今後しっかりと吟味する必要がある。

失敗瞑想は放っておいて、せっかく目を開いているのだから、朱剛先生の瞑想を観察させてもらった。

自分なりに参考になる部分があった。

転んでもただでは起きたくない。

 

本日、最後の瞑想に賭ける。

 

午後、2回目の瞑想に突入する。

まずは入念に丁寧に大きな動きを心掛け 蠕動 を行う。

筋肉も筋も伸ばし、ほぐす。

蠕動 が良いと、その後の瞑想も良い、そんな感覚が身に付きつつある。

準備は万端だ、自分がやるべき事はやった、勝負!

 

気の瞑想に入る 蠕動 が効いているのか、良い気感が発生する。

強い。

中々の気感である、午前中よりも格段に強い。

恐ろしいほど、穏やかで、落ち着いていて、心地よい。

ズッシリ、充実感のある気を構築する事が出来た、勝負の時!

 

いよいよ最後の勝負、心の瞑想に突入する。

気の瞑想からの気感の引き継ぎは、非常に上手くいっている。

目を開いた事により、無駄な気感だけが削ぎ落とされて、必要な感覚のエキスのみが残っていく。

なんだろうこのサッパリした感覚は、しかし、意識は冴えていて何もかも感じる。

朦朧とした状態の対極の感覚だ。

 

工事の騒音は苦情がきてもおかしくないぐらいだが、そんなことは全く気にならず、心は落ち着いていて、これでもかというぐらい安定している。

五感が働き、全て分かっているが、自分の精神とは別の世界に五感の世界がある。

まるで他人が聞いているように音を聞き、物を見ている。

それも、とてつもなく静かで、心地よい感覚に自分が支配されているからである。

こんな状況を自分の体と!心が作り出していると言う事実が信じられない。

全てが他人事のように感じる。

 

昔、グアムへダイビングに行き、ブルーホールと言う所に潜った事がある。

水深は50m近く潜ったと思う。

50m潜ると廻りは薄暗く、自分が吐くエアーの音が聞こえるだけで、本当に静かである。

その時の静かさ、心地よさ、海面から差し込む青い光、あー自分はもうどうなってもいいなとその時思った。

そして同時に、槍ヶ岳の頂上から360°の絵景を眺めているような、神々しい感覚もある。

それほど穏やかで、静かで、澄み切っている感覚の中に、この瞬間いる。

満たされてる、至福だ。

これ以上何も望まない、今ここに座らせて貰っている、もうそれだけで十分で過ぎる。

椿山荘に泊まりたいとも思わない、神楽坂の料亭で食事がしたいとも思わない。

 

望むなら、このままここにずっと今の状態で、ここに居させてほしい。

 

ただ座る。

この意味が身体と心を通し少し分かったような気がする。

 

ただ座るって、ただ座ることなんだなとつくづく思う。

あれをしよう、とか、これをやってやろう、とか、こうでなくてはいけない、とか、ああでなければいけない、とか、そういった数々の物を捨てた時、今、ここに、ただ座る と言う状態が発現する。

そこには、何も無いのではなく、これ以上の物はないような満たされた感覚がある。

禅とは捨てる文化である その意味が身体と心を通し理解した。

 

しかし、残念ながらタイムアップ、本日の瞑想は終了である。

 

目を開けた瞬間、朱剛先生から今日は二人だけでしたが、最後は二人同じ場所にいましたね。

ここから練習が始まるのですよと言っていただき、棒喝の意味を教えていただいた。

以前、聞いた臨済の棒喝の説明と同じだったが、今の私には全く別の解釈になっていた。(世間的な棒喝とは違う)

 

 今回の瞑想では 初心 と言う言葉を先生はよく使われた。

初心 とは今の気持ちなのだな。

心の底の最もベースとなる部分が 今回体験心の状態(初心) になるのだなと思う。

 

足るを知る と言う言葉があるが、今日はそういった一日であった。

そして 足るを知る 解釈も今回の体験で全く変わってしまった。

 

このブログは 日日是好日 を文字ってブログのタイトルとさせてもらっている。

禅的解釈でなく、一般的な解釈では 好日 と言う日はそれほどなく、嫌な日々が相当数ある。

しかし、一日のどこかで、今のような気持ちになれるのであれば、好日 となるだろう。

そういった意味でも少しだけ 日日是好日 に近づけたのではないかと思う。

 

こんな経験をすると、言葉の持つ威力など、水鉄砲でチョロチョロと撃たれているほどの威力しか無いと思う。

瞑想は体験の文化 と言われる、朱剛先生の言葉が体験と言うフィルターを通して理解できた。

 

瞑想、禅の世界で、あーでも、こーでもない、この理論では、あの理論では等々、ヒバリのようにピーチク、パーチク、鳴き散らす、親切、丁寧と言う仮面を被った輩がどれほど多い事か、そして、それがどれほど不親切なことか。

 

そういった人たちは、瞑想、禅と言う物に対して自信のない人たちなのだと思う。

自信の無さが言葉となって現れる。

自信があれば体験を通して人を導ける、言葉は最小限で最大限の効果を発揮する。

 

本当の意味での先生、師とは、言葉は少なくても求める人が、体験できるよう導ける人であると確信に変わりました。

 

明日は五日目だが、何も望む物は無くなってしまった。

明日は、ただ静かに、穏やかに座らせてもらえれば、もうそれで十分である。

それほど満ち足りた一日であった。

 

続く