一日目
朱剛先生が主催される瞑想会には大きく分けて3種類の瞑想会がある。(最近、小周天瞑想が加わったので実際には4種類だが)
気の瞑想、光の瞑想、心の瞑想 で各々特長があり、また、レベルも違う。
レベルの順番で言うと、気の瞑想、光の瞑想、心の瞑想になる。
心の瞑想 が目指すべき最高の物になる。
瞑想は深み、境地と言った視点からはレベル分けは出来るのだが、完全に線引きできるようなものでも無く、各々が重なりあっている部分もあるので、自分のレベルに関係無く、瞑想会に参加すれば数々の気付きがある。
今回は 心の瞑想 に参加。
レベルだけで言えば最高レベルの瞑想である。
心の瞑想の特長は目を開いて行うことに特長がある。
少し、宗教的な言葉を使うと、ゾクチェン、マハームドラー、頓悟禅等が 心の瞑想 の境地に近しいらしい。
心の瞑想 は日本人にも馴染み深い禅に相当するが、私がかじった程度に経験した禅とは仕掛けが違う。(この仕掛けが非常に本当に重要です)
自分は心の瞑想に取り組んで、本来の禅とは 心の瞑想 のような方向性の瞑想でなかったかと勝手に思っている。
心の瞑想 が目指す境地は大変深く高いが、目を開いた瞑想なので、日常の中で行うことが出来る。
この事からも、本来、禅や瞑想とは特別な時に、特別な場所で行う行為では無く、普通の生活の中で、普通に存在しているのだと思う。
後は、どのような方法の練習を行うかだけである。
自分が 心の瞑想 を受講するだけのレベルに達しているかと言えば 否 となるが、経験する事で色んな気づきもあるし、私の目指す境地は 心の瞑想 に含まれているので、否応なしに取り組むしかない。
武術を嗜む私にとっては、目を開いていることが日常で、そう言った意味からも 心の瞑想 は必須科目である。
一日目、はじまり、はじまり。
まずは蠕動、身体を解し、伸ばし、緩める、そして 気の瞑想 を行い、準備を整える。
そして 心の瞑想 に入る。
目を開いた瞑想は目から情報が入って来るので、とても、とても心が乱される。
本来なら仕掛けが効いているのだが、ここ二週間ぐらい何故だか気が散って、浮わついた感覚に囚われている。
よって、仕掛けが上手く発動せず、集中することができない、えらく淡白な感じである。
納得出来るような瞑想とはならなかった。
残念ながら、午前中終了。
本日はズームの参加者を除くと、実教室に参加しているのは私だけなので、昼食は先生と二人で韓国料理を食べに行った。
先生と二人だけで食事をするのは初めてである。
いつもは皆さんが色んな事を聞いてみえるが、今日は私だけの朱剛先生である。
無いこと、有ること色々聞いた。
中国コロナ事情、中国気功事情、中国の気功に対する科学的研究、導引吐納はいつから始まった、インドと気功の関係、朱剛先生の先生の話、瞑想の種類、マインドフルネスその他色々、まー色んな話を聞けて楽しかったな。
本来なら、情報提供的に多少の内容を書くべきかもしれないが、文足らずの私が書き、誤解を招くような表現が入るといけないのであえて書かない。
朱剛先生は聞けば、色々な事に答えてくれるので、直接、質問してほしい。
一言だけ言うならば 瞑想とは非常にシンプルで、経験の文化である と言うことだ。
昼寝を一時間して、午後の部開始。
今日は何だか、集中力が出ない。
そんな状態を見越してか、蠕動 と 気の瞑想 が多い。
自分のレベルの低さを痛感する。
しかし、潮目は変わった。
身体に重みのある感覚が発生する。
鉛で作ったワタアメに包まれたような重厚な感覚が発生し、その感覚は中へ中へと向かっていく。
どんどん凝縮して濃厚な感覚が顕著になっていく。
午前中の感覚が白湯みたいな物だとすると、今発生している感覚はチーズフォンデュのチーズのように濃厚である。
目は開いているのだが見えているのかいないのか、画像情報として目から入っているようだが処理が停止しているようだ。
確実に視野は欠けている。
本日も周辺で工事をしている、音自体は耳に入っているのだが音として認識していなかったと思う。
夜、時計の秒針の音が気にならなくなり、眠りに落ちる時のようでもある。
五感が消えていく。
五感が消えて、時間の感覚も消えていく。
でも、とても幸せな感じだ。
母親の体内にいた時は、きっとこんな感じだったんではなかろうか?
本当に今、自分がここに存在するだけになる。
自分がいることは事実だが、その自分すら何なのかはよくわからない。
自分とは一体、何なんだろう?
未来があるのか、過去があったのか、時間って一体何なんだろう?
体もなく、時間もない不思議な感覚だった。
そんな感じを何度となく繰り返した。
ふっと時計を見ると30分ほど経過している。
その間、朦朧とした状態であったと思う。
意識が我に帰って来るきっかけは、幻覚が見えた事である。
教室にいるはずの無い人影や人、教室には無いカレンダーが床に落ちている状態が幻覚で表れ我に帰る。
人間は一定の条件を満たすと幻覚を見る。
私も過去に眠気を我慢していたときに数度、幻覚を見たことがある。
今回は眠くは無かったが、五感が消えて朦朧としたことで幻覚が発生した。
瞑想が終わり、先生に話したところ、瞑想をしない人にはわからないだろうけど、瞑想をしている人には普通に起きるから気にしないでと言われた。
そんな事より、穏やかで落ち着いた心地よい気持ちを深めて言ってくださいと言われる。
確かに、今日の瞑想は今までに無い経験を幾つかすることになったが、そのベースとなる気持ちは穏やかで、落ち着いていて、小さな頃に母親におんぶをしてもらっているような心地良さが、色々な現象のベースになった事は間違いない。
幻覚を特別な物だと思うと、オカルト系の変な方向に行ってしまう。
(幻覚は現代では医学的に因果関係が分かっている、現象です)
これから先も、幻覚は起こるのだろう。
しかし、そんなものは気にせず、少し珍しい映画を観たとでも思っておけば良いと思う。
大切なのは 心の瞑想 が大切に育て、守ろうとする心の状態である。
心の瞑想とは、穏やかで、落ち着いていて、心地良い気持ち、を深めていく瞑想だと言うことを、自分の身体を以て経験、理解することできた。
今日は午前中からの流で、捨て日かなと思っていたが、思わぬ経験ができて非常に面白い、良い日になった。
明日に続く