瞑想日記 第一回 である。
瞑想日記であって 冥界日記 でも 霊界日記 でもないので、勘違いしてこのブログに来てしまった人は、退出いただいたほうが良いかと思います。
最初に瞑想に接したのは 禅 である。
禅 に関しては比較的、体験会 や 座禅会 のようなものが、どの地方でも行われている傾向があり、とっつきやすい。
そういう自分も地元の無料座禅会に参加した口である。
その時は、座り方 と 数息観 を教えてもらった記憶がある。
数息観 には 観 と言う字が入っている。
今はなるほどなと思うが、当時は何とも思わなかった。
奥では古参の方が 公案 らしき事をやっていた記憶がある。
正直、公案はやりたくねーなと思った。
実際にはそれほど詳しい説明があった訳ではないが、座り方(姿勢)、数息観に気を張りながら座った。
多分、目を瞑った 禅 だったと思う。
その時の気持ちは今でも強烈に記憶に残っている。
数息観 は自分の息を 1回、2回、3回と呼吸をするごとに数える。
息を数えるわけだが自分は何故か 羊 が頭に浮かんでしまった。
いきなり座っても 心 が静かな状態とはならず、色ろな雑多な事をやたら考えてしまい、集中どころの騒ぎではなくなるためで、それならなんか一つの事に集中したほうが良いと言う考えのもとに 数息観 があるらしい。
集中するために 息 を数える、寝るために 羊 を数える。
個人的には勝者 羊 だなと思った。
でも寝てしまっては話にならんし・・・
本来は数を数えている間は、数を数える事に集中して、それ以外の事は考えにくいと言う理屈である。
だが、だがである、人間と言う生き物はこの 息を数える と言った単純な行為さえも、そう簡単にはできない。
10、20ぐらいまでは普通に息を数えていたが、50ぐらいになると非常に怪しくなってくる。
明日の仕事の事、昼ご飯食べよう等々、一つの雑念が湧くと、連鎖的に次々と雑念が湧き、息を数える行為など遥か彼方に行ってしまう。
いかん、いかんと思って、また息を数えるが、また途中で色々な他事を考え、また連鎖的に他事ばかり考える。
数息観 は難しい、それが私が禅に抱いた感想である。
また、自分の心は自分の思うままに意のままだと思っていたが、数すらまともに数えられない現実に、自分の心は自分の物ではなく、全く別の何かが寄生していて、その寄生している物に操られているのかもしれないと思った。
自分の心が自分の物では無いかもしれないと言う現実を突きつけられて結構なショックを受けた覚えがある。
こんな事は普段の生活では気づく事もないが、多くの人に当てはまるのではないかと思う。
その他で記憶があるのが禅を行っている間中、警策 (きょうさく、けいさく)を持って人が巡回している事だ。
禅をしていると、背中を棒のような者で パンパン 叩かれるやつの事である。
息を数えていると、警策を持った人が近づいてくる “私なのか私なのか、やられちゃうのかやられちゃうのか”
正直、ドキドキしっぱなしで 数息観 どころの騒ぎではない。
多分、ぐるナイゴチバトルでドローンが下りてくる時の気持ちに近い。
息を数える事なんかに集中できるわけがなく、足音、気配に気がとられ集中どころの騒ぎではない。
瞑想とは雑念との戦いだと言う印象を抱いたのが、瞑想とのファーストコンタクトでした。
禅を体験した感覚を正直に言葉にすると
釈然としない
と言うのが正直なところで、ガッカリしてしまったのを昨日のように思い出します。
続く