昨年もコロナで大変な一年だったが、2年ぶりに禅密気功の短期集中コースに参加できた事は何よりであった。

 

昨年の最後に参加したのは 心の瞑想(禅のような瞑想)であった。

 

心の瞑想にはいくつかの段階がある。

その説明を朱剛先生から聞いていた時に、アッと思った。

 

とうとう見つけた。

自分の探し求めていたものを言葉として聞くことができた。

 

やはり自分の勘は正しかった。

 

禅密気功には何かがある、初めて短期集中コースに参加した時に何かを感じた。

 

だが、漠然としてハッキリした物を見つけることができずにいた。

 

自分の感覚は間違っていたのか?

自分は求めている物と違う方向に進んでいってしまっているのか?

 

しかし、やはり禅密気功にはあった。

 

その物の事を一般的には 悟り と言うのかもしれない。

しかし、禅密気功ではそのような言い方はしないし、自分の求めている物は同じ方向性を秘めながらも若干、現実が異なる。

 

仮にたどり着く境地を 悟り としよう。

しかし 悟った 人を一般の人が見て、この人は悟った人だと分かるのだろうか。

額に 悟り と言う文字でも浮き出ていれば、誰にもわかるが、そんな人はいない。

 

しかし、自分が求めている物は、ぐうの音が出ないほど客観的で検証が可能な物である。

目標は見つかった。

しかし、はるかに遠いところにあり、自分はまだ一歩を踏み出したに過ぎない。

 

だが、行先は分かった、後は自分で歩んでいく、果たしてどこまで行けるだろう。

しかし、苦労や困難が伴うが、道のり事体がきっと楽しいのだろう。

 

今まで何十年と探してきて、探し求めていた物をやっと見つけた。

 

とても嬉しい。