心の瞑想 の短期集中コース(4日間)に参加してきた。

朱剛先生が主催される瞑想会は大きく分けて 気の瞑想 光の瞑想 心の瞑想がある。

各々に対してある程度レベル的な考え方はあるが、それぞれの瞑想が互いにリンクしている部分があるので、基礎コースを受講した人であれば誰でも受講が可能である。

 

過去の経験上、私の心の瞑想に対する印象は 難しい である。

何故か? 心の瞑想は目を開けた瞑想なので、雑念に囚われやすいからである。

 

心の瞑想について、書けば色々と書けるが、書いて勘違いを誘発するといけないので書かない。

 

朱剛先生の説明を聞くと 禅 のような瞑想であることが分かる。

禅密気功なので、当然、禅の要素は含まれる。

禅は禅でも 六祖 慧能 が残した 頓悟 に繋がる考え方の瞑想である。

他の要素も含んではいるが、心の瞑想は単的に言ってそのような瞑想だと思っている。

 

過去の経験上 禅 に対してはあまり良い印象を持っていない。

何故かと言うと、禅との関わり方、取り組み方が分からなかった経験をしたことがあり 禅 はもういいやと言うのが私の下した判断である。

私はかなり早い段階で 禅 に興味を持った。

それは私が目指すものと一致する可能性があり、その世界の先人が禅を行った事実があるからだ。

 

しかし、数か月ではあるが 禅 に接してみて、方向性が全く見えず、自分に何も起こらなかった。

その時 禅 は形骸化しているかもしれない? 思った、そして興味を失った。

私は形骸化して、骨抜きになった物をたくさん見て来た。

作法、形だけには非常に厳しいが、なぜその作法を行うのか、なぜその形を取るのか、形骸化した物にはその説明が無い。

そして意味も分からず、作法や形に拘り、威張り散らしている人をたくさん見た。

 

作法、形について、何故なのか、どうしてなのかと、迫ると 昔からそうしてきたからだ 作った人がそうしたからだと 言われるのみである。

本当に言葉に出して言いたかった あんた、意味や効果も分からんものを人に教えているのか? 何度自分を抑えた事か。

 

いくら形が残っても 中身が無ければ何の意味もない。

かつ丼を頼んで、蓋を開けても、そこにはかつ丼は無いのである。

そこにあるのは品のある丼ぶり器、と小うるさい食事の作法だけである。

私はかつ丼が食べたいのであって、器が伊万里であろうが、九谷であろうが、青磁であろうが、白磁であろうがそんな事はどうでもよい。

私はかつ丼を食べに行って、陶磁器の品評をしたい人間では無い。

かつ丼が入っていれば、お弁当パックであろうが、プラスチック容器であろうが、それがかつ丼だと思っている。

器を食べても腹は膨れないし、そもそもそんなもの食べたら体を壊す。

 

私の好きな言葉に 伝統とは変化の連続である と言う言葉がある。

この言葉を発した人は、伝統中の伝統の中にいる人であったが、非常に勇気のある人だと思った。

伝統も過去には最新であったことがあるはずだ。

しかしやがて 胡坐をかき 努力を怠り、その結果中身を喪失する事態となる。

変化を求め過去の物を全て捨てると言った事ではない。

過去の良い物をしっかりと見つめ直し、現代の価値観に合致させる必要がある。

本当に伝統的な人は、過去と現在の時間のかかわりについて、真摯に向きあっている人だと思っている。

伝統とは知恵でもある。

一人の人間の人生だけでは成しえなかった、経験と知恵が凝縮している。

伝統がダメだと言っているのではない、しっかりと過去と今を見つめてほしいと言うことである。

その時、初めて 普遍、不変 と言うものにたどり着くのではないかと思う。

 

ちょっと、理屈っぽくなっったので反省。

 

禅密の 心の瞑想 であるが、導入部の掴みがとてもしっかりしていて感動する。

この導入部の掴みは大変、大変重要だ。

一般的な 日本の禅 にこういった導入部があれば、私は 禅 を続けていたと思う。

この導入の掴みのお陰で、私のような素人が目を開いて瞑想をしても 雑念に襲われることはほぼ無い。

心の瞑想は難しい と書いたが、今はそう思っていない。

言葉は悪いが、今回、瞑想会に参加して 心の瞑想(禅)は簡単でシンプル であると感じている。

だが、しかし これほど奥深い瞑想も無いと思うようになった。

そういった意味ではやはり 心の瞑想 は難しいのかもしれない。

しかし、これほど楽しみをや心地よさを与えてくれる瞑想もないのではないかと思う。

 

心の瞑想とは、朱剛先生がホワイトボードに書かれた言葉が全てを表している。

 

活在当下

 

禅密の心の瞑想とはそういった瞑想です。