人間の世界には欲というものがある。(動物にもあるけど)
欲と言う言葉は一般的にあまり良くない意味で使われることが多いと思う。
特に悪い意味で使われる欲に 我欲 がある。
自分が禅密気功を始めた動機は、ある欲があったからである。
人に何か良い影響を与えるわけものでもなく、社会に益する事もない欲なので、完全に我欲と言っても良い。
まー、人に迷惑をかけることもない欲なので、人畜無害と言ってもよいのかもしれない。
しかし、この欲のおかげで、禅密気功を継続的に行っているのも事実だし、禅密気功の効果で社会的なトラブルが未然に防げた事実もある。
なにより、禅密気功のおかげで日々の暮らしに豊かになった。
自分はこの 欲 という言葉が意外に好きだ。
そもそも 欲 を 欲 と表現してしまうのがいけないと思っている。
個人的には 欲 は エネルギー だと思っている。
エネルギーであるならば、使い方次第で 善 にもなるし 悪 にもなる。
歴史的にも、社会的にも、自分の周りを見ても尊敬できる人はエネルギッシュな人が多い。
〇〇に刃物と言われることがあるが、常識的な人が刃物を使えば、色々と益する使い方ができるが、誤った使い方をすると人を傷つけ悲惨な事になる。
要は、欲 と言うものも使い方によっては 害 にも 益 にもなるということだ。
そうなると 使い方 が善悪の大きな方向性を決めることになる。
自分の習うもの、習得する物がどのような方向性の物であるかで善悪が決定される。
物事を習得する絶対条件は 素直さ であると自分は思っている。
この素直さを利用して、非常によろしくない行為を行う人は、これまた多い。
これは気功の世界だけではない、一般的に社会生活を営んでいれば誰もがインチキ、嘘つき人間には出会っていると思う。
悲惨なのが洗脳である、人の素直さを利用して悪い方向に導く。
しかし、頭の良い悪いは別にして、素直な人は洗脳に陥りやすい。
広告やCM、デザインなどもチョットした効果で人を誘導する(サブリミナルなどは今は使用禁止だが有名だ)、以外に気づかない現実である。
物事には自分が気づかないだけで、意外な危険が潜んでいる。
自分が禅密気功を習っていこうと思ったのは 朱剛先生 が言われた どんどん普通になっていく と言われた事がきっかけだ。
この言葉は一般常識や社会通念から外れることは無いと言うことを示していて、とても良いなと思った記憶がある。
特別な物を求めているのではなく、普通の生活の中で求められる、最も普通を目指していく。
そして ホッと した気持ちを目指していく。
日本は一応佛教国なので 煩悩=悪 と言う感覚があるとは思うが、個人的にはバランスの問題で、欲と言うエネルギーは上手に制御しながら使えば、社会にとっても個人にとっても大変有用で利益のある物だと思う。
何でもそうだが、バランスが大切である。
単純に欲や煩悩を持ってはいかないと言うのは言葉や机上の世界の話で現実の社会に住む人が使う観念ではないと思う。
本当に世の中から 欲 が無くなれば 平和 と言う人もいるが、 欲 がこの世からなくなれば、人類も動物も全て絶滅するので、違う意味で ”そりゃ確かにある意味で平和だわな” とは思う。
単純に書物を読んだ知識や、何も経験しない状態で欲を否定するのは如何なものだろうと思います。