太田尹資、それはある意味、抵抗である。 | ゆうゆうねこの感想ブログ

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(11/1 少し書きかえました)

 

そして今、私の胸をつかんで離さないのが「太田尹資」の人生です。

 

太田道灌の甥で養子、そして一周回って「太田永厳」ではないかと言われている(笑)太田永賢こと太田資家が開基した養竹院に、太田尹資はやってきます。

 

彼は、「自分こそ太田道灌嫡流7代目である」と主張します。当然彼の主張は自分の祖先「太田道永資家こそ道灌公の養嗣子である」とするものでした。

 

しかし、当時は江戸時代です。家康夫人お梶の縁者でもある康資系の隆盛は紛れもないもので、太田康資が「嫡流」であるという文書はたくさん(作られもし)保存されていったことでしょう。

 

それに比べて、太田道灌ゆかりの家宝を数多く伝えていたという岩付越前太田ではありましたが、太田尹資の何代か前には浪人してしまいます。そして、河内国で郷士として生きていくことになるのですが、これではいけないと、尹資は関東を目指すのです。

 

でも、もしかするとこれは「逃散」という抵抗方法なのかもしれないと思ったのです。

 

これは、逃げたわけではなく、主を持たぬが故の自由な旅です。幕末、いろんな人がわざわざ脱藩して旅をしています。

 

彼はおそらく岩槻にも行ったでしょう。しかし当然岩槻城に入れるはずもなく、そこで「道灌7代目」を主張することは厳しかったのかもしれません。そして川島の養竹院に行きついたのだと思います。

 

しかし、当時は地図があるわけでも、今のように何でも調べられるわけでもありません。関西で生まれた単なる郷士(≒農民)の彼が、「川島の養竹院が祖先資家の開基である」と認識出来ていたこと自体、彼が間違いなく太田道灌、また資家の後裔である証拠の一つなのではないでしょうか。

 

控え目すぎますが、またそれしかできなかったのかもしれませんが、その行動が何か「権力に対する抵抗」のように思えたのです。

 

 

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まだ「太田永厳」に文句を言いきれていないし、結局今年はじいさん馬に会いに行ってしまって、梶原政景のお墓にも行かれなかったので、まだまだ私のこの旅も終わりません。