2022年7月1日、母が逝った。

 

7月31日に49日の法要、納骨を済ませて

やっとブログを開けた。

けれど、書けなくて4カ月が経った・・・。

 

91歳だった。

最後の瞬間には、私は間に合わなかった。

2022年5月10日の夜に緊急入院して、2カ月弱だった。

 

私は今年2022年4月の誕生日で60歳になった。

兄弟姉妹は居ない。

母にも居ない(実の姉妹は居るが付き合いがない)
父は私が21歳の頃、母と籍を別にしている。

母は2歳の時に養子として、養父母の元に来た。

その養父母も私が20歳になる前に亡くなっている。

 

私には、血縁・親戚として付き合いのある人は

母と息子2人以外に誰も居ない。

夫とは48の時に籍を抜いた。

夫との関係については後日。

(個性的な人だった・感謝してる部分もある今でも)

 

 

人が一人死ぬということ。

社会から一人の人が存在しなくなるということ。

 

実の母が死ぬということ。

確執のあった、いわゆる毒親の母と別れるということ。

 

特別な関係であった人が「死」を迎えるということ。

特別な人の死は、とてもとても特別な出来事であるということ。

 

特別な存在の人を喪失することは

強い悲しみや苦しみを伴うとされている。

 

いわゆる毒親であった母と、これ以上かかわるのは

もう無理だ、と思っていた矢先ではあった。

 

   私は普段は、明るくて人懐こい。

   バカな子犬みたいな性格だ。

 

愛してほしかった、とか

認めてもらいたかった、とか

そういう段階にはおそらく無くて

(喧嘩もしてない。

 ストーカー体質で会話が成立しなかった。

 喧嘩もできない、と言うか。)

 

2022年初頭に思った。

もういいだろう、別れても。

もう付き合い切ったよね、

今回の人生の中でお互いに、二人で、二人きりで

「仲の悪い母と娘」をやり切ったよね。

(仲の悪い母娘、の由来は後日書く)

 

 

緊急入院した病院で1週間くらい経過した入院中。

母「ありがとうね」

私「ありがとうね」

私「愛してるよ」

母「愛してるよ」

 

 

入院してから急激に認知症が進んだ母は

話が通じる状態にはついに戻らなかった

(元々違う意味で話は通じなかったけれど)

が、

 

そして元々常に芝居がかった表現が好きな人で

「生まれて初めて食べるわありがと~~~」
(いやいや一昨年の誕生日にも買ってきたやつだけどね)などと

勝手なタイミングで猫なで声を出すことも多かったが

 

それとはちょっと異なるトーンで、

 

起き上がることもできないベッドで

「ああ、そこに猫がいるわね」だの

「冬用の黒いオーバーはどこかしら」だの

せん妄状態の発言も繰り返す中で

 

ふと正気に返ったような

魂からの響きのようなトーンで

 

お互いに目を見ながら、お互いの髪を撫でながら

「ありがとう」と「愛してるよ」を

言い合えたことで

 

 今もこうして書くと泣けるけれど

 その涙の理由はまだ捕まえきれていないけれど、

 悲しみなのかなんなのかわかんないまんまだけれど、

 月日が経ったらまた違う感情が出るのだろうけれど、

 居なくなったことがほっとしてる部分もあるのだけれど、

 

私はかなり救われているし

 

私が救われるような記憶を残してくれたことに

 

あらためて「すごい人だったなあ」と

思ったりしてる。深い感謝と共に。

 

おかあさん。

私は大丈夫だから、ちゃんといいところにいってね。

もうどこも痛くないよね。

きっともう寂しくもないよね。

悔しくもないよね。

いつかまた会おうね。

 

そのときもう一度「ありがとう」と言わせて。

 

(膨大な遺品の中にあったお正月用の生け花の写真)

↑ 仏花の足しに普段は仏壇に飾ってあるニコニコ

  お花の世話も下手くそな私。

  母が存命中は私が生花を飾っても

  くそみそに言われるだけなので

  買っても来なかったなあ。てへぺろ

(母は生け花の師範持ち)