結論的なことを先に書こう。

 それは、ご覧のような人類世界の様子を見て、「救い難い人間(自分自身)・人類」であることを深く自覚すると共に、そんな無明・無知・愚痴な人間・人類を誕生させたこの世の普遍的真実・真理・自然の法(因縁・縁起)の心も人間にはわかりようが無いと言うことを深く自覚すると言うことである。

 つまり、人間には、「この世・世界・人間・人生と言うものの何たるかも、その存在意義自体もさっぱりわからず、分別の仕様など全く無いと言うこと(「何でも無さ」)を深く自覚すると言うことが決定的に大事だと言うことである。

 それによってはじめて「虚妄分別と執着」と言う人生苦の根本原因が解消され、無条件絶対の、言うこと無しの「安穏・快適な真の幸せ」が実現するのである。

 それには、「わかっちゃいるけど…」の我執煩悩を能く抑えることの出来る健全な仏性の心での求道心がしっかり働かないことには始まりようが無いけれど。

 

 ただ、その「仏性の心での求道心の働き」云々の点は、浄土真宗等で説かれる「救われようの無い無明・愚悪な煩悩具足の凡夫は、他力である阿弥陀仏の本願を信じ切ることによってのみ救われる」と言う「仏性否定」かのような、「一切合切すべては他力一筋である」と説く教えとは少し異なる。

 私には、浄土真宗等での「自力・他力」「善人・悪人」「易行道・難行道」「他力による往還回向」等々、多くの分別を語りつつ、「その一切すべては阿弥陀仏の本願によって解消される」と言う、その救われる過程たるや大変難しくて難解で、音を上げてしまったのであった。

 浄土真宗等での、自力では救われようの無い自分自身を深く自覚して他力の阿弥陀仏の救いの教えを聞こうとするその心は「仏性の心での求道心でなくて何なのであろうか」と言う素朴な疑問なのであるが、親鸞聖人は「無明愚悪な煩悩具足の凡夫の仏性による求道心など全く当てには成らない。聞法しようとする心も信心も一切すべては弥陀仏の本願による回向である」と説かれるのである。

 つまり、「お寺に参って念仏の教えを聞こうとする心も、信心を獲て浄土往生して救われる往相も、また成仏して後,娑婆に戻り一切衆生を思うが如く救う還相回向もみな偏に阿弥陀仏による他力回向によるものだ」と説かれるのである。

 であれば、「どうして阿弥陀如来は一切の衆生を回向によって成仏させないのであろうかと言う愚聞が生じる」と言うことをどこかで書いた。

 結局、私は「はい、私には浄土真宗の教義を理解する力は無いことがよくわかりました。もう結構です」と言う他は無くなってしまったのである。

 そこで釈尊の教えを学んでみると、「不可思議な因縁・縁起によって成る目の前の現実・事実としてのこの世・世界・人生の『何でも無さ』を正見・自覚した無分別・無執着の心で『中道』を歩め」と言う簡明な教えがとってもわかり易かったのである。

  

 感性の仏性の方には浄土真宗の教えの方がわかり易いのかもしれないが、私の場合は、「一切すべては不可思議な因縁・縁起による『何でも無い』事象世界だ。無分別・無執着の心であれ」と言う教えの方がスーと心に入って来て、とても気持ちが良かったことを覚えている。

 つまり、善くても悪くても、好きでも嫌いでも、得でも損でも、幸でも不幸でも、戦争でも平和でも、一切すべては雲のように、水のようにただ流転するだけの不可思議な因縁・縁起によるこの世・世界・人生・命なのだと言うことである。

 これだけわかれば、そこには善人・悪人、自力・他力等々、一切の分別は無用・無効と言うことがわかるであろう。私はそのことを釈尊の仏法・仏道の教えに学んで救われ、仏教が少しわかったような気に成っているのである。

 元より、各人の因縁によって自分の道を選択して行けばいいのは言うまでも無い。「何でも無い」この世・世界・人生であるからこそ、ご覧の通り、この世・宇宙世界の個々の事象はとても数字では表せない色々様々段々の事象と成って現れているのである。

 

 そして、「仏教なんて…」と、「何でも無い」物・カネ・愛・地位・名誉等々をご本尊として信仰しているかのような常識人がどのような思いでその人生を過ごしているのかは私には見当もつかないが、でもその迷妄・苦悩・地獄道が止められない(面白くて生き甲斐を感じている?)とあれば、やはり彼らの心は「生き物人間か餓鬼か」なのであろうか?と言ったところであるが、それはそれで結構なことだと言わねばなるまい。

 只今の日本の政局も、アフリカの動物たちが「みんなで考えてより良い動物社会を築こうぜ」と議会を開きつつ、その陰ではこそこそと名利権争いをしたり、ネコババをしたりと言うようなものであること、ご覧の通りである。

 「人間も生き物だから、それが当然だ」には納得せざるを得まい。

 

 仏性の心が働く者は彼らと諍いを起こすのでは無く、静かに住み分ければ済むこと、いつもの通りである。