それが人生の明暗を分けるカギと成ると言えようか。

 その「真心・自己」とは、ここでは仏性の心のことを指しているのだが。

 

 私はブログで、自分の心の中で仏性の心が寂しくひっそりとしているのではあるまいか、よく探して、見つかったらそれを励まし育てて欲しいと何度かかいたが、真に幸せな人生とはそこからしか始まらないように思える。

 釈尊が、すべては心なのだと説かれるのもそのことなのであろう。

 真人間として生きようと道を求めるか、それとも生存欲のままに物・カネ・愛等々の世間の濁流に流されて浮き沈みつつ迷妄・苦悩・地獄の人生を過ごすかは、我執煩悩に流されがちな自分の心に対して「そんな生き方の人生で人生を生きたことになるのか」と言う、真心の自己からの問いかけがあるか、それとも「生き物人間か餓鬼か」と言った生き方をしている我執煩悩の他の心の働きは無く、我執煩悩一筋に物・カネ・愛等々の「何でも無い」事象に翻弄されながら迷妄・苦悩・地獄をさ迷っている世間・諸国・人類を見て「これが人間・人生と言うものだ」と、世間・世界に流されて生きるイワシのような群盲かの違いと言うことである。

 

 あるいは政治家が、「こんな世間・世界では成らないからこそ自分が政治家に成って世直しを…」と言うような思いで政治家に成るとしたら、これもイワシと同類の無明・無知であることはご覧の通りである。人類の世界史で、偉大なる政治家として名を成した人で「生き物人間か餓鬼か」の存在ではなかったものは一人として居ない?ことでもそれはうなずけよう。

 なるほど、「生き物人間か餓鬼か」と言った国民大衆や人類からは称賛されたり銅像を建てられたりするかもしれないが、それは共に真人間としてのそれでは無いから、その国や人類世界に真の平和が実現する訳ではないことはご覧の通りであり、後世に永遠の怨恨を残すことに成る。こんなことは中学や高校で歴史を学べばすぐわかることである。

 

 私はそのようなことを中高生の頃感じ、やがて仏教徒に成ったのであった。お陰で物・カネ・愛・地位等々の類は何も無いし、宇宙ステーションに行く機会も無いが、しかし居ながらにして、この世・大宇宙の普遍的真実・真理・自然の法と言う、名実共に「大乗」の船に乗れていて何の不安も不満も無い。

 それは、「誰が何と言おうと、善くても悪くても自分は自分だ。これが普遍的真実・真理・自然の法によって授けられた自分の存在の仕方なのだ」と言う自覚である。

 そんな真人間としての心さえあれば、今では大学へなんか行かなくてもいいし、仕事など色々渡り歩いてもいいし、食うや食わずの生活でもいいし、結婚なんかしなくてもいい。

 とにかく、「あるがまま、成り行くままですべてよし」なのであり、「これが自分の人生だ。自分はこれでいい」と言える人生を思いっきり生きるべきであろう。人生はそう長くはないのだから。

 それには、「世間は鬱陶しいなぁー」と言う思いが生じたら、先ずは仏法を学んで心においてそのような煩わしく虚しいだけの虚仮・虚妄・嘘・欺瞞な「世間の常識」から飛び出すことである。

 そうすれば、死をも含めて生きる道は無数と成り、実に楽しい人生と成る。

 仏教とは、この世の普遍的真実・真理・自然の法を生みの親とも、友ともして生きる道の教えなのである。

 であるから、仏教(仏法・仏道)は「仏性」と呼ばれる「真心・真の自己」が芽生えて動き出し、人生を仏道の道場として歩む人生と成るのである。

 と言うと、「へー、一生を仏道で過ごすなんてつまらん、面白くなーい」と思うかも知れないが、そこが、我執煩悩で生きる「生き物人間か餓鬼か」の道と、仏性の真心・真の自己」で生きる「真人間」としての道かと言う違いなのである。

 そして、この世の普遍的真実・真理・自然の法の下においては、「みんなちがって、みんないい」のである。