当面はそれより他は無いであろうことは承知しているが、そうだとした時、いささかでも真人間で在りたいと思う心ある者においては次の一手(求道)が考えられていいのではあるまいかと思うのだが。

 「自由民主主義」とは、いかにも素晴らしい思想のように思われているが、その実は、アフリカの動物たちかそれ以下の「生き物人間か餓鬼か」と言った無明・無知・愚痴な人間たちはもう手の着けようが無く、勝手に迷妄・苦悩・地獄道を行かせておくより他はあるまいと言う「放り出し」の制度だとも言えるのである。

 そのことは、戦争の歴史はさておくとして、近年のことでも、ここまで主権者であるはずの国民が愚弄・虚仮にされてもなお、そのような政治家を何度でも支持・登場させる主権者国民とは一体何なのかと言うことでも明らかであろう。

 つまり、この世・世界・人間・人生とは何かと言うことも、自分自身をも、民主政治とは何かも知らない無知・無明・愚痴な者たちの中から我執・我欲の強い小賢しい「生き物人間か餓鬼」が躍り出たのが政治家だと言うことなのである。真の賢者はそんな政治には関わりはしない。釈尊が国王に成るべく重責を負いながらそれを放棄したのがその典型であろう。

 また、本来ならば民主国家の騎手、社会教育者としての文化人であるべきメディアや言論人が、営業利益上、国民に対して最大限のごますり忖度をし、国民に対して「国民は一体、何を考えて投票しているのか!」、「もう少し考えて欲しい」、「主権者である国民はもっと勉強すべきだ」等々の注文を付けてしかるべきものを、その責務を完全に放棄し、だんまり戦術をとるばかりか、むしろ政治や財界とグルに成り、国民をバカにしたかのように興味本位の上っ面の情報を流して稼いでいるだけの悪徳業の報道機関は政治と共に捨てるべきものの筆頭であることは何度か書いた。このことは私が郵政本省に勤めていた頃に確認したことでもある。

 であれば、民主政治を信奉する主権者たる国民は国会での愚聞愚答やその報道などどうでもいいから、国がどういう方向で進んでいるのかの現実・事実を見て、首相や最高裁の裁判官のつもりで、主権者として投票すべきであると言うことである。政治家としての適任者が見当たらないとか、誰がいいのかわからないと言うのであれば投票すべきではない。あるいは自分たちで「この人に」と言う人物を探し出すべきである。出たがる者には碌なものは居ないことぐらいわからないでは主権者としての資格は無い。それに政治家はまともな人間なら数十人で十分である。数百人も要らない。少し極端に言えば、現在の派閥の数か政党の数まともな政治家が居ればいいと言うことである。船頭が多く成れば船は山に登る。何百人もの群盲を集めるから餓鬼が多くなり幅を利かせ、国政を誤るのである。

 と言うより、この世・世界・人間(自分)・人生の何たるかを知らず求めず無関心な無明・無知・愚痴な「世間虚仮」を楽しんでいる国民に見合った政治家に政治をやらせる「民主政治」が一番気楽であり、しかも「自業自得」の真理にも適っていて世話も軽いと言うことなのである。

 わかり易く言えば、アフリカの動物たちに仏法を説いても「馬耳東風」であるように、彼らは彼らの好きにさせておくに限ると言うことと同じだと言うことである。

 しかるに、動物たちの世界は名実ともに「弱肉強食」である。「生き物人間か餓鬼か」と言った「群盲の人類世界」もまた然りであることはウクライナ、パレスチナを拠点にした世界を見た通りである。

 「おかしなあいつを叩き、やっつけ、潰して俺たちが幸せに成りたいのだ」と言う自我中心的我執煩悩に燃え盛る「生き物人間か餓鬼か」の群盲の人類世界なのである。であれば、やはり、「あるがまま、成りゆくままですべてよし」の他はあるまい。

 だが、主権者たる無明・無知・愚痴な国民は、自分に適わない欲望・願望を、何と弁舌が達者なだけのペテン師のような成りたくてしょうがない政治家に託してしまうのである。自分と同じか、自分よりの一層心掛けの悪い政治家に何か真面なことをやってもらえるわけはあるまいものを、それがわからないのが「主権者たる国民」なのである。これでは政治家にいい様にされて当然であろう。

 現実としての主権者国民は、政治を自分自身の問題とすることの出来ない無明・無知・愚痴な政治家と同類の「生き物人間か餓鬼なのであろうか、それとも「木偶の棒」なのであろうか。あるいは政治家より少しはましで、「まあ、政治・世間とはこんなもんだべや」と覚っているのであろうか。

 いずれにしても、真人間で在りたいと思うのもは、この世をこの世たらしめているこの世の普遍的真実・真理・自然の法に心を沿わせ、「生き物人間か餓鬼か」と言った群盲では無く、自然を友として暮らすのが最善であることは言うまでも無い。

 

 戦後最長の長期政権と言われ、さも素晴らしい成果を上げた政治家のように言われた安倍政権だが、何のことは無い、他に是と言った人物が居なかったと言うだけのことだと言うことはつとに言われていたが、安倍政権における諸々の諸悪と、何よりもその死がその政権の虚像をいみじくも示していたと言っていいであろう。更には、その後の継者が定まらないと言う状態もそれを意味していたし、そして挙句の果てが、今問題に成っているその派閥の幹部全員による露骨な政治資金の裏金問題の実態であり、政治家・政権の繁栄とは何かを如実に物語っていると言えよう。

 国民の、そんな政界を利権漁りで渡り歩くごろつきのような政治業者を教育の頂点に立つ文科大臣等々の要職につけている政治を見て、それでも投票すると言う人々の気が知れない。つまり、国政の問題とその責任は挙げて国民にあると言うのが民主政治の原点なのだと言うことさえ知らないのが日本の民主国家なのであろう。だが、どのメディアも決してこのことを指摘もしなければ報じもしない。

 何故か。メディア(評論家・識者・編集者等々)とは情報を売って儲ける業者であり、まともな人間世界を目指して記者会見をしたり取材をしたり報道したりしているわけでは無いからである。右・左など関係なく、メディアはみな、売れる情報、事業が成り立つルートを確保することを目指しているだけの営利事業団体なのである。その情報を買ったり飛びついたりする国民は釣り針に食いつく魚のようなものであることを承知しているのであろうか。安くて美しくおいしく感じさせる巧妙な食品も全くのそれだと言うことは言うまでも無い。ユーチューブ動画もまた然り。とにかく、私が常に指摘している、事象しか見ない、見えない無明・無知な国民大衆はそんな釣り針の餌にいくらでも食いついてくるのである。

 話が少し逸れた。首相への在任は短かったが、近年の日本政治の幹部として長期間君臨してきた麻生副総裁の責任も重いと言わねばなるまい。麻生副総裁は私と同年齢のようだが、若い議員から「長老の政治家も居てくれた方がいい」と言われるような存在感を示して欲しいと思うのだが。

  「俺の所には嫌疑はかかっていないから…」とか、物・カネ等、只の事象をどうするこうすると言ったようなことでは無く、総理経験者、党の副総裁として今後日本をどう言う国にしたいのか、どんな日本国民に成って欲しいのかと言うことを大所・高所から発言をすべきであろう。国民ベットにどんな餌をどれだけ与えるかと言ったようなことでは無く、どう言う国民に成って欲しいと言うビジョンがあるのかと言うことである。それが無いから今なお西欧かぶれを患ったままであったり旧統一教会に煩わされたりと言うことに成っていたのであろう。

 かって麻生氏が首相の時だったか、「老人はさっさと死んでもらったらいい」と、なかなかいいことを言うなと思っていたら、なんとそれを即撤回してしまった。

 孔子は(15歳ごろから求道心が芽生えた者のことではあるが)「七十にして心の欲するところに従えども、矩をこえず」と言う。思うがままに言動しても真人間としての道理・秩序を乱すことは無いと言うことである。ホントに本当のことをズバズバ言えるのは、やはり人間70歳を過ぎてからである。

 田中角栄元首相は孔子の言うそれでは無かったようであるが、50歳代で首相に成り、「コンピューター付ブルドーザー」と言われるように、ほぼ思うままに政治をやって行ける名実ともに才覚と器量のある格別な人物であったと言えよう。立花氏はその田中角栄を「品の無い人だった」と言っていた。立花氏の言うその「品」が何を指しているのかよくわからないが、常識人の言う「品」と言うのはくせものであり、多くの場合それは、「建前と本音」の使い分けによる虚仮・虚妄・嘘・欺瞞が常識人の「品」の作り方である。田中角栄における真骨頂はその「品」の図太さ、愚直さであり、それは世間常識の「品」の善し悪しを超えていた。それだけにその生涯の浮き沈みも激しいものとは成ったが、何かの国家社会的な大仕事をするにはそれでなければ成ることではあるまい。大方の政治家やメディアのように国民を騙すのではなく、やるべきことをやれるだけに、愚直に国民を支持者にしてしまうのである。表向きの「品」をつくりながら国民を騙してこそこそと私腹を肥やすよりは、この方が政治家らしくもあり、人生としては意気に感じられて面白くもあろう。田中角栄の見どころは多いが、岸・佐藤と言ったアメリカ一辺倒の戦後の政治路線には乗らず、東西の対立を超え、真の日本の独立を成し遂げようとしたところにも器量の大きさが見られる。その点でも安倍元首相や麻生元首相の外交姿勢には思想もビジョンも無く、憲法改正を目論み、集団的自衛権の行使を進めて日米合同委員会とやらによる日本のアメリカ属国に輪をかけてしまった。安倍元首相の「品」の良さは、ただその場を繕うことに長けているだけで、日本の政治家として一体、何をやりたかったのであろうか、何をやったのであろうかと言う時、そこには何も見えないままあのような政治家としての結末を迎え、そして只今の安倍派のすがたがあると言うことであろう。

 そう言えば福田康夫元首相はある会見で、某、無明・無知・愚痴なメディア(記者)の質問に対して「私はあなたとは違うんです」とバッサリ切り捨てた気持ちのいい場面があった。

 記者は自分を主権者国民の騎手のように思っているのかもしれないが、中高生のような幼稚な記者の質問に納得のいくような回答をするような首相ではども成るまい。愚問を呈するメディア・記者にはあれでいいのである。何と書かれるかわからないからと恐れて言葉を濁したり、すれ違い答弁を繰り返すような政治屋は居なくていい。

  近年の50~60歳代の政治家はこの世・世界・人間(自分自身)・人生の何たるかを知らず求めず無関心と言う、全くの無明・無知な若僧であり、とても当てにも頼りにも成るものでは無い。「次の首相の選びようが無いなぁー、女性で誰か居ないか」と言うのがそれであろう。

 さてそこで、老僧のようなことは無理としても、政治家の名門の御曹司と言われている麻生太郎氏である。「日本と言う国は島国ではあるが、大自然の豊饒な環境に恵まれた中で、古来より神道・仏教・儒教・武士道と言った優れた精神文化を尊び、真人間としての道を歩みつつ育み、育まれてきた国柄なのであり、元来、物作りには長けていても、物・カネでの競争や戦争に勝って自我中心的繁栄・存続を目論むような生き物人間か餓鬼かと言った国柄では無い。ここにこそ日本国の存在意義があるのだと言う自覚を持って我々政治家は政治をやっていかねばならないのだ」と言ったようなことで後輩の政治家を育ててくれたら長老としての存在意義も高まり、日本の政治にもいくらか期待できるのだが。それに、現状のような腐敗しきった状態の中で引退してしまうようなことになっては麻生さんも心残りがして寂しくはあるまいか。

 そしてまた、ここまで政権与党が堕落・腐敗し切っていても野党がその受け皿に成れないと言う実情は、もう野党は存在しないと言うのと同じで言葉が無い。

 いや、あった。「だから言ったじゃないの」と言う言葉が。「政治なんて言う国民を利用した利権亡者の世界は真っ先に捨てるべきものだ」と何度も言ってきたことの繰り返しだが。

 ただ言うまでも無いことではあるが、政治の体たらくの真の責任は、全面的に、「普遍的真実・真理・自然とか、仏教とか宗教とか、そんなものは…」と、物・カネ・愛・地位・名誉・家族・子孫・国家等々に盲目的に突っ走る道しか見えない無明・無知・愚痴な「只の生き物人間か餓鬼か」と言った、「真人間に成れない」主権者・国民にあるのだと言うことは論じるまでも無いことである。

 

 話は少し変わるが、櫻井よしこさんと言う方が「あなたは戦場に行けますか?」と発言したことでまた話題になっているようだ。私には、「餓鬼こそは愛国者なんですよ」と言いたいのかのように聞こえる。

 私は昔から、「あんなに美人で上品そうなお顔をしているのに、発言することはどうも…」と言った印象を持っていたのであるが、今回の発言はその締めくくりと言うことだったのだろうか。わかり易い浅はかな発言だったようだ。

 私のブログ上の言葉からすれば美人の櫻井さんも「餓鬼なんとか」と言うことになるかもしれないがそうは言わない。けれど、「きれいなお顔をした無明・無知・愚痴な言論人だ」と言うことだけははっきり言わねばなるまいか。戦争をして国家の繁栄を願うと言うことは餓鬼と呼ぶ他は無く、人間としては如何に愚劣極まりないことかと言うことが80歳近くなってもまだわかっておられないようだからである。

 と言っても、日本国民の半数以上がそれだとあれば、常識としてはそれで勝ち組と成るのではあろう。そしてまた戦争での地獄を見て敗戦(で済むか?)をして…なのか。

 ただ、言うまでも無いことではあるが、政治の体たらくの真の責任は、全面的に、「普遍的真実・真理・自然とか、仏教とか宗教とか、そんなものは…」と、物・カネ・愛・地位・名誉・家族・子孫・国家等々に盲目的に突っ走る道しか見えない無明・無知・愚痴な「只の生き物人間か餓鬼か」と言った、「真人間に成れない」主権者・国民にあるのだと言うことは論じるまでも無いことなのである。

 西欧のように、根っからの我執煩悩による自我中心的虚妄分別が大事にされる諸国では民主主義がある意味で功を奏するのだが、我が国のように程よい大きさの自然に恵まれた島国の国民で、しかも精神文化的にも古来より仏教・儒教・神道・武士道等、元来、平和・穏健・忠義・従順と言った真人間として必要な国民性が根付いているため、お上(為政者)の命令・指示には従うと言うことを信条としており、為政者を自分たちの見解を選ぶと言うようなことには慣れていないと言うか、馴染めないのである。そういう意味で、日本には自由民主主義は馴染みにくいと言う点もあろう。

 実にありがたいことだと言わねばなるまいが、幸いなことに、日本では上記のような豊かな自然環境に恵まれて、日本の統一期の戦国時代はともかくとして、他は、聖徳太子を始めとして為政者は諸外国に比べると概ね賢明な人物が生まれ、育っており、お上の命令には従順で居て問題は無かったと言うことが日本民族を育てて来ていたと言っていいのであろう。

 が、明治維新は避けられなかったことであろうことからすれば、何時までも日本の良き国民性や文化を維持することは出来ないと言うのもまた、普遍的真実・真理・自然だと言わねばなるまい。 

 そのことは、人間の思いとは全く関係無く人は生まれては死に、を繰り返すように、戦争と平和もそれなのである。そして人類もまた衆生の一種としての存在でしかない現実、そして東北大地震や北陸大地震に見るように、人間の力をはるかにはるかに超えた普遍的真実・真理・自然の営みを体験させられれば、その「ありのまま、成りゆくまま」の現実・事実に目覚めて生死を超え、「この世・世界・人間・人生など何でも無い。あるがまま、成りゆくままですべてよし」と言う無条件絶対の安穏・快適・常楽の存在と成ることが出来ようし、またそれが出来るのが人間なのだと説かれるのが仏教なのである。勿論、「人間も生き物だ。普遍的真実・真理・自然だとか、仏法だとかそんなものは…」と言う生き物人間や餓鬼はここで言う人間には無理であろうが。

 「そうだな、それしかないな」とうなずける心ある人はその仏法に心を沿わせ、世間の常識に翻弄されず、染まらず、それを心で捨て超えて無条件絶対の安穏快適な中道をすいすいと歩んで欲しいということ、いつもの通りある。

 

 なこのこのブログは「世間虚仮・唯仏是真」と言うことを書いたものでもあるが、

と言うことは、要するに人の多く集まるところ、人気の多い商品、情報、催しは、宗教・仏教も含めて、それは虚仮・虚妄・嘘・欺瞞な内容・事物・事象が多いと言うことの証だと言うことに心を馳せて頂けるとありがたいと思う。「人気があるから自分も…」や「それが世間の常識だから…」は、真人間の道では無く、「生き物人間か餓鬼かの群盲の道だ」と言うことである。