このことも折々の世間の事象を題材として、断片的には何度も書いて来たことであるが、近年の世間・世界の状況を垣間見ていると、健全な思想・哲学・宗教を確立した真人間であろうとする者が表世界には全くと言っていいほど居なくなり、かって言われていた「軽薄短小」に加えて「狭歪稚拙(卑劣)」とでもいうべき虚仮・虚妄・虚偽・欺瞞・策略な非行・犯罪が安倍政権における集団的自衛権・森友・加計・桜・統一教会等、急速に天下・国家にはびこっているように感じられる。

 安倍政権においては中村警察庁長官の問題があったが、只今の中原官房副長官事案も政治・警察・検察がらみの露骨な腐敗ぶりであり、法の番人が自ら法治国家を冒涜・否定するもので、私も「すべてよし」としてはいるものの、ここまで露骨になってはの感がしないでもない。これも人間の思惑で作った憲法以下の法令が輪ゴムを組み合わせて作ったような虚仮・虚妄なもので、権力者の思いでどうにでも出来ると言うことの証だと言えよう。

 私が警察官の仕事ぶりをいぶかしく思ったのは、35年前頃から2,3度あるが、「あんたたちはそんなことしかすることは無いのですか」と言いたくなるような、要するに点数稼ぎ(収入増に成るのであろうか)のような仕事ぶりであった。

 だがそれは、政治家は言うまでも無く、僧侶も警察官も、学校の先生もみな同じだなとであり、生業として、いわゆる「何々ごっこ」をみんな楽しんでいる?と言うことなのである。

 つまりそれは「世間虚仮・唯仏是真」を裏付けるものばかりなのであるが、その「仏の教え」は、決して「信じ難いものを信じ込ませる信仰・信心」の教えでは無く、あくまでも、目の前の現実・事実としてのこの世・世界・人生の何たるかを、この世の普遍的真実・真理・自然の法のすがたとして正見・自覚し、思想・哲学・宗教としての智慧を確立させ、虚仮・虚妄・嘘・欺瞞な政治等の「世間虚仮」を捨て超え、一切の人生苦から解放されよと言う教えなのだと言うことである。

  それを私は「政治家が政治をやっているのではなく、警察官が警察をやっているわけでは無い」と言うこと、即ち、学者・官僚・政治家・警察官・検事・裁判官・弁護士・医師・僧侶・会社員・農民等々の仕事のすべては、ただ何らかの因縁によってそのような仕事に就いているだけであって、かつ次々と移り変わって行くだけの「何でも無い」事象に過ぎず、動物や昆虫たちと全く変わらない衆生の世界だということであり、そこでは善悪・上下等々、如何なる分別も成り立たないのである。無明・無知・愚痴な生物人間か餓鬼による自我中心的な虚妄分別の他には。

 つまり、「人間も生き物だから…」と「生き物人間か餓鬼か」と言った我執煩悩のチエで「何でも無い」事象を自我中心的に虚妄分別し、それに執着したのでは怒り、争い、戦い等の人生苦が生じない方がおかしかろうと言うことである。

 輪ゴムで作ったような法の網の目は無明・無知な権力者の思いのままと成るのが人の世の常である。そして戦後の繁栄期にひょろひょろと成長した「軽薄短小・狭歪稚拙」と言った今日の権力者は、理知でも徳性でもなく、これまた生き物人間か餓鬼かと言った国民の半分余りの数の「票」を奪い合って、その数を力としているのである。

 菩薩や高僧でなくても、「そんな世界には付き合ってられない!」と言うことにはなるまいか。

 プーチンが、ゼレンスキーがと言うけれど、かっての無数の大戦における英雄と称される指導者もみな、概ねその「生き物人間か餓鬼か」の餓鬼大将だったのである。そして今、プーチンやゼレンスキーを批判する世界の指導者はどうであろうか。ウクライナの戦火に、自我中心的な損得勘定によって端から油を注ぐ国は多くても、「そんな生き物人間か餓鬼かと言った愚劣なことはもういい加減で止めようぜ」と提唱する真人間の声は聞こえて来ない。

 今、その真人間としての道を世界に訴え主張することの出来る国がもしあるとすれば、それはわが国・日本を置いて他には無いように思われ、またわが国にはその責務があると言ってもいいかと思うのだが、そのわが国もすっかり欧米の煩悩の垢に染まってしまっていて、闇将軍である「日米合同委員会」とやらを問題にする気概さえ無いようである。日本はまだ独立国では無い。「クロネコヤマト」の子猫のようなものだと言わねばなるまい。

 

 そんな「生き物人間か餓鬼世界」では「世間虚仮」としての自我中心的虚妄分別が世間常識と成るから、仕事の上下・貴賎・善悪等々の差別的分別が生じるのは必然となる。そして、その「差別」をこれまた「生き物人間か餓鬼か」と言った世間常識で「不当な差別だ」などと批判して見せるのであるが、その差別批判が自分の立場上での、全くの建前と本音の使い分けでの批判であるのは誰もが知っての通りである。

 「このようなことが二度とあっては成らない」と言うことが如何に白々しいものであるかと言うことは、その発言者も知ってのことである。これが「世間虚仮」である。このように虚仮・虚妄・嘘・欺瞞の歯車が回転しているのが人類世界なのである。そこでのからくりには真実・真理・自然は通じない。

 そんな人類世界の現実をユーチューブを見ていると心の陰りを感じることは少なく無いが、真の仏教徒においては、「何でも無いこの世・世界・人生」では、「みんなちがってみな同じ」であり、「みんなちがってみんないい」のであり、そのような白々しい嘘・欺瞞な世間常識に惑わされることは無い。

 現に、それだからこそ、あいつも、こいつも、あのひとも、このひともみんなみんな生きて存在しているのであろう。そして間違いなく、みんなみんな消えて行く。

 こんな明白な、わざわざ見なくても嫌でもわかるこの世・世界・人生の「何でも無さ」がわからないと言うから、釈尊はそれを「無明・無知・愚痴」として憐れみ、救いの法を説かれたのであるが、それを聞く耳を持っている者は居ないに等しいため、人類世界はご覧の通りなのであるが、そのような現実・事実としての普遍的真実・真理・自然の法に心を沿わせた真人間で在りたいと思う仏教徒においては、差別や不公平、あるいは不平・不満・争い・戦い・殺し合いなど生じようが無い。

 物事を正しく・賢明に分別・判断することによって成り立っているはずの人間世界において、その分別基準が無明・無知・愚痴な生物人間か餓鬼かと言うような者たちによる我執煩悩での民主主義とあっては、これは迷妄・苦悩・地獄より他には成りようがあるまいことはご覧の通りである。

 「人間世界はおかしい!」のでは無い。その「人間世界はおかしい!」と言うその心の無明・無知・愚痴がおかしい人間世界を作っているのである。

 一切すべては真実・真理のすがたであり、必然なのであり、その他に在り様は無いのである。そのことに気づけ、目を覚ませと言うのが仏の救いとしての教えなのである。

 つまりそれが、表題の「自分自身の生存・存在の拠り所を定めるための思想・哲学・宗教としての仏教」と言うことである。それは、自分自身のアイデンティティを求め定める道の教えと言うことでもある。糸の切れた凧は哀れ不憫である。

 頭から「この世の普遍的真実・真理・自然の法によってこの世の・世界・人生の『何でも無さ』を正見・自覚せよ」と言う仏教は難しすぎるかもしれないが、「世間虚仮」を見て、「これってどう考えてもおかしいよな」と感じて、そこから帰納的に仏法に向かうと言うことならわかり易いのではあるまいか。これが普通であろうし、釈尊もその道を辿られたのである。 

 

 ユーチューブの時代に成ってだいぶ経過したが、日本での動画しか見ないため、それでもまだ虚仮・虚妄・虚偽・欺瞞・策略等の状況は穏やかな方なのかもしれないが、それでも、この頃はユーチューバーがも多くなり、必然的にその質が落ちて来て、サムネールからして低俗なトリッキーなものが多く、クリックする気に成らず、この頃では音楽を聴くのが殆どである。

 それもこの頃では、昭和34年頃か?橋幸夫さんと吉永小百合さんの「若い東京の空の下」、三田明さんの「みんな名も無く貧しいけれど」「美しい恋人たち」、足立昭さんの「女学生」、高田美和さんの「十七歳は一度だけ」等々、文字通り、戦後復興で立ち上がった頃の、夢のある、明るく、楽しい、懐かしい歌声である。

 勿論、当時は、その若い歌声の裏では鬱陶しい政治の世界もあったのであるが、多くの国民、特に戦後生まれの若者たちは夢や希望を抱いて生きることを楽しんでいた。そんな若者たちの巣立ち、羽ばたきを歌謡界が力強く応援していたのである。

 だがしかし、である。そんな明るい希望に満ちた、らんらんとした戦後を楽しんで来た若者たちは、この世・世界・人生と言うものの何たるかを求める気概も無く、ふにゃふにゃ、ひょろひょろと育っているうちにバブル経済がはじけ、おろおろしてきたのが、いわるゆ「失われた30年」と言われることなのであろう。

 だが、それは決して失われたのでは無く、只、徒過して来ただけである。私はそんな中、音楽も楽しんだが、求道も面白くて捨てることが出来ず、それがやがて趣味と成ってしまった。

 これから繫栄するのはインドか、ブラジルか、あるいはアフリカかと言うが、いずれもこれまで先進国と言われた国々と同じような道を辿ることに成ろう。そしてやがては人類滅亡への助走へと進むのであろうか。否、とうに人類はその道を歩んでいるのであろう。

 それは人間が生・老・病・死を免れないのと同様、実に「何でも無い存在・事象」と言うことである。

 歴史からそのような普遍的真実・真理・自然の法を学ぶのが真人間というものではあるまいか。関が原の戦い、日露戦争、アジア太平洋戦争等々が、ただ「生き物人間か餓鬼か」と言った人間たちによる迷妄・苦悩・地獄絵だと言うことの他は「何でも無い」事象だと言うことがわからず、「あの時は何がどうだったから、今度は何をどうすればいい」と言うような虚仮・虚妄なことしか考えられないチエを釈尊は無明・無知・愚痴と呼ぶのである。

 先に、日本はいまだ独立国では無いと書いた。大方の日本人は戦後復興気における物・カネの繁栄に酔い、惑わされ、自分自身の生存・存在の拠り所としての思想・哲学・宗教を持てず、持つ気も失い、只の生き物人間か餓鬼としての生存欲のチエで、米国の日本州で甘んじることに慣れきってしまっているのであろう。

 が、今やその米国も「奢れるもの久しからず」でおぼつかなくなって来たようである。そんな米国に金魚のうんこのように付いていっていては不安だからどうするかと言えば、日本も核を持って軍備を増強し、憲法を改正して全くの餓鬼国に成ろうと言う算段のようである。

 日本国の存亡をかけてでも真人間としての道を世界に提唱しようじゃないかと言う気概のあるものは政治家の中にはたった一人も居ない。居ないはずである。そんなことは人類の歴史に見るように「生き物人間か餓鬼か」の人間世界では通用することでは無いからである。 

 だからこそ、普遍的真実・真理・自然の法に目覚めてそのことを正見・自覚された釈尊は、無明・無知・愚痴な我執煩悩による虚仮・虚妄・嘘・欺瞞な「生き物人間か餓鬼か」と言った迷妄・苦悩・地獄の世界を捨て超えられたのである。

 

 即ち、仏教(仏法・仏道)とは、思想・哲学・宗教と言う名称はともかくとして、それに相当する仏性の心が働き、真人間であろうとする者の行く道であり、その真の仏教徒において肝心なことは、物・カネ等々での成功の道を競ったり戦ったり、あるいは何か不可思議な神秘的な教えを信じたりすることでは無く、この世の普遍的真実・真理・自然の法(仏法)として展開されている日々の目の前の現実・事実としてのこの世・世界・人間・人生と言うものの「何でも無さ」を正見・自覚することだと言うことである。この点は本則的な仏法の道でも、また方便としての阿弥陀仏の本願の道でも全く異なることは無い。

 仏と成るのは覚束ないとしても、仏法を一応でも心得、疑いようの無いこの世・世界・人生の「何でも無さ」=「すべてよし」の真実・真理・自然の法に沿った中道を迷わず歩いていれば、それは太陽と言う真理の光を受けて輝く月の様に、地球上のことなど関係なく、何がどうあっても無くても無条件絶対の安穏・快適な暮らしが自ずから実現する。それが、この世の現実・事実としての「唯仏是真」の道なのである。

 真人間でありたいものと、この世の普遍的真実・真理・自然の法に生きる道を求めておられる方は、宗派の教えでは無く、まず、仏・釈尊の教えを学んで、この世・世界・人生と言うものの「何でも無さ」を正見・自覚することを強くお勧めしたい。

 只今で言えばウクライナ戦争で人類世界をひっかきまわしている「生き物人間か餓鬼か」と言うしかない者たちが織り成す虚仮・虚妄・嘘・欺瞞な「何でも無い」世界を論じたり嘆いたりしても、それは「群盲象を評す」で詮無いことである。

 仏・釈尊は、そのような世界は、ただ「この世とかの世をともに捨て去る」のみである。「犀の角のように(真実・真理・自然の法の道を)ただ独り歩め」と教えられる。これが、仏法を聞いて「この世を見ればわかる」仏教としての思想・哲学・宗教の道なのである。

 

  むら雲も 流転輪廻の満ち欠けも 黙して静か 月の真如は   (再掲)