1,Kさんからのメール  23,3,15 

 

いつも我執煩悩に悩む度に、何度も何度も、噛んで含める様に説かれておられるブログに立ち返り、コピーを手帳に張り、繰り返し読ませて頂いています。

以前、巡り合った安泰寺(曹洞宗修業道場)の歴代住職さんや法然院の梶田住職さんも煩悩の離れ難さを話されておられますが、私には「何でも無い」のお言葉がしっくり心に染みたのでした。

縁から生じた我執煩悩の塊である人間を、アインシュタインが「人間の愚かさは底抜けだ」と言う意味も善導様のブログによって解くこと出来た気が致しますが、70才にもなり未だに耳学問であり恥ずかしい限りでございます。

大学時代にダンマパダ等の初期仏典にも触れましたが、社会に迎合して生きて参りました。宇宙の営みは「明日は明日の風が吹く、つまり何でも無いのだ」と、高齢ながら一歩でも仏道に近づきたく思います。今後ともメールにてお話させて頂きたく、お願い申し上げます。

 

 

私からの返信  23,3,16

 

メール、拝見いたしました。

いつも私のブログを読んでくださり、大変ありがたく、うれしく思います。

「ごく稀には真人間も居る」と言うのはあなたのような方なのでしょうね。

それに、「何度も何度も、噛んで含める様に説かれて」いるのが役に立ったと言うことであれば、私もうれしく思います。そのことは自分でも気に成ってはいたのですが、しかし、何かの習いごとでもスポーツでもそうですが、繰り返しや継続はホントに大事なことなのです。

 それに、元々私が求めていたのは「真理(真実)は一つ」の、その一つなのであり、それが仏法であったわけで、この世・世界・人生のどの問題や苦悩を取り上げても、その問題や苦悩の解決の道としてはどうしても「その一つ」であるこの世の普遍的真実・真理・自然の法に帰着することに成るため、私のブログは同じことを繰り返すことに成るわけですが、この点は、気ままな随筆であり、論文では無いからと言うことをも含めて大目に見ていただけるとありがたいがと思っているわけです。

 特に仏教は、自分の心の働かせ方を修正するというか、入れ替えると言うか、野放図な生存欲である我執煩悩を始末すると言う難儀な道の教えですからね、文字通り頑迷固陋な人間の我執煩悩を整理するのはなかなかであり、仮に求道心によって仏法を聞いていたとしても、「分かっちゃいるけど…」や「分からんじゃないけど…」と言ったことで腰砕けに成りがちで、我執煩悩の殻をぶち破るのは容易ではありません。だから私は自分に「これは念仏を称えることと同じなのだ」と言い聞かせながら「繰り言」を書いて来たわけです。

 その辺の所をKさんに理解していただけたようでうれしく思います。Kさんが人間(の心)と言うもの、そして仏教の何たるかに気づかれているからでしょう。

 ところが、世間の常識人は、仮に仏教に関心があったとしてもそれは上っ面のことでしか無く、「それは知ってる」「それも聞いたことがある」「それも何かで読んだことがる」と言ったような断片的な危うい知識で済まして居られるわけです。そこが真の仏教徒であろうと智慧・信心の涵養に務めておられるKさんは異なるのでしょうね。

 

 メールでの会話、いいですね。どうぞ、よろしくお願いいたします。

 

 

 

 

2,Kさんからのメール  23,3,19

 

善導様のブログに偶然辿り着き、読ませて頂いて思いましたことは、(宗派的仏教である)他力救済の信仰よりも、釈迦本来の徹底した合理的な法の教えを聞き学び、この世と人生の真相(その「何でも無さ」)に気づくと言う自己改革(日々の鍛錬)によって苦しみから解放されるのだ。あらゆる苦しみの根元は「何でも無い」事象を我執煩悩によって妄想・妄見する自分の心にあるのだよと、多様な表現を用いて説き尽くされ、数千年もの間に世間の泥垢にまみれてしまった教え(教えそのものは光り輝いている)を洗っておられるお姿に映りました。

又独り言(繰り言)で述べられる事につきましては、亀井勝一郎さんの「この世にこれ程の仏像が存在するのは、人々が救われない(無明から脱却出来ない)ことの証左なのではないだろうか?」と言うのと同様の趣旨であり、善導様の繰り言はそんな中で、一人でも多くの方が仏縁につながる事を願っての繰り言ブログなのであろうと理解いたしました。

 

 

私からの返信  23,3,21

 

メール拝見いたしました。

自分が救われると、他の有縁の人にもと成るのが仏性の心と言うもののようです。生き物人間や餓鬼と言った人間の心は、喜びを独り占めにしようとするから、そこで争いや戦いが始まりますが、仏の道はそれとは違い、逆なのです。

Kさんは、既に仏法の核心に気づかれている方だと思います。この上は、ご自分の仏法・仏道をしっかり確立し、それなりの自信がついたら迷っている人、道を求めている人のためにブログで発信してみてはどうでしょうか。気が向いたらどこかの宗派で得度しては?

他に発信することで、自分の仏法に対する心も次第に深まって行きますよ。

 

 

 

 

3,Kさんからのメール  23,3,22

 

日々の修行として、ブログ発信などにより仏道の確かな歩みを積み上げ、内面を鍛える必要を感じて居ります。長い間趣味の登山で、中高年の方々を40年近くお世話させて頂いて、ボランティアを通して沢山の触れ合いの中での色々な学びを経験して参りました。ここ10年近くは、高齢の母親の介護に孤軍奮闘中でございます。山岳自然に縁という仏の教えを深く感じつつ、大乗華厳経の阿僧祇、那由多等の無量大数(壮大な宇宙時間)に刹那の自らの存在を対比(我執煩悩)し、実存的恐怖感にかられるという情けない中年時代でございました。善導様のお言葉にモヤモヤが吹き飛び、心が晴れた次第です。感謝申し上げます。

 

  

私からの返信  23,3,23

 

Kさんは若い頃から仏法にも関心を持っておられ、加えて登山愛好家だと言うことであれば、仏法は一層わかりやすいことと思います。ただ、20世紀の実存哲学では、現実の世界と歩調を合わせて生きようとするのには好都合かもしれませんが、それはやはり我執煩悩の範囲と成りますのでね、生き物としての「人間のチエである我執煩悩」を捨て超えようとする仏道には馴染まないと思います。

さりとて、日本における各宗派の教えは、概して(釈尊の仏法の教えを省いた)宗祖の歩んだ「仏道の教え」ですからね、私にはとても分かりにくい「宗派の教え」でした。だから私は直接、仏である釈尊の説かれた仏法を学んだわけです。

すると、仏教はもう「この世は何でも無いぞ」と言う教えでしか無かったわけです。これには即、「納得!」と言う他はありませんでした。

釈尊はその「何でも無いこの世・世界・人生」をどう生きよと教えておられるのかと言うと、それは「中道を生きよ」と言うことに成るわけです。中道とは、「無分別・無執着の分別である智慧の道」と言うことです。

そのような釈尊の教えを私は、「この世は何でも無い。あるがまま、成り行き任せてすべてよし」と言う教えだと領解したと言うことです。

私のブログ(私の仏教)は、これだけです。

Kさんが、私のブログを真の仏教徒として本気で読んでくださり、真正面から理解してくださっていることを大変、うれしく思います。これからも求道の人生を大いに楽しんでいただきたいと思います。ではまた。

 

 

 

4,Kさんからのメール 23,3,23

 

善導様は、縁起、一切皆苦、諸行無常、諸法無我の言葉を待たなくても、実体の無いこの世は「明日は明日の風が吹く」だから(と同様)、「何でも無い」のだと、どのような人生を生きるのも、それ自体すべては縁と考え(受けとめ)、縁起と言う無・空の中で生きるのであり、何も難しく考える事はないのだよとブログで綴られているので、9割方自己に囚われている私などは、最初は拍子抜けしましたが、目の前の世界をよくよく見れば、それらはすべては無・空という真理を体現しているのであり、常識と言う社会通念は形だけの事象を語っているだけで命(真・実体)を持たないのである。だからそのような「何でも無い事象」に対する執着、束縛からは離れねばならないのだと、何度も何度も沢山の例を上げて語って下さっているのは私には救いでした。

「悩みがあるなら、すぐ隣には安心があるじゃないか」と、安心して悩んで行くことのできる人生(仏陀の存在・智慧)との出逢いを感じさせてくれます。

日本には真の仏教教団は無いが、一部には真の仏弟子は存在するだろうと想像はして居りましたが、お陰さまで、衆生の宿命を照らしてくれる仏の教え、中道が僅かながら私にも芽生えた気が致します。 

 

 

私からの返信  23,3,23

 

 Kさんは、仏法の核心部分に辿り着かれたようで、よかったですね。それは、仏教は仏法の教えであり、仏法とは「因縁・縁起」であり、その法の核心は「無空」(「何でも無さ」)であり、その「無空」の実践は「中道」だと言うことです。「中道」は臨機応変・融通無碍の絶対自由平等の心であり、「分別・執着を断った分別」である「すべてよし」(真如)と言う宇宙銀河鉄道の道です。

そのことがしっかり分かっていれば、その実践の道である仏道は「ただ念仏(信心)」でも、「踊念仏」でも、「只坐禅」でも、「只回峰」でも、何でもいいわけです。各宗派の宗祖が自分の個性に合った好きな道を選んだだけですから。

だから私は「何もしない」のです、と言うか、私の存在・暮しそのものが法によって成っているのですからね。命も、心も、個性も、呼吸も、脈拍もすべては法による働きなのですから、真の仏教徒であろうとする者においては当然のこととして人生そのものが「仏道の道場」と成るわけです。

つまり、仏教は決して難しい教えでは無いと言うことです。それはそうでしょう。現実・事実としての「生老病死」や「栄枯盛衰」等、この世・世界・人生の一切すべてがそのまま普遍的真実・真理・自然の法のすがた・教えなのですから、分別・執着する余地のない「何でも無さ」は明白であり、「すべてよし」は絶対・必然なのです。

仏教は、「イエスの復活を信じよ。そしたら神の思し召しに適って救われるぞ」と言うような難儀な教えではありません。

そんな、当たり前すぎるほどに当たり前の教えが仏教だと言うことですが、その教えがわからないと言うか、その前に、無関心だと言うことです。

そこに一般の常識的人間、例えば、只今のウクライナ戦争に何らかの形で関与している政治家たち、あるいは「人間も生き物だからしょうがないよな」と、他人事で片づけてしまえるような「生き物人間か餓鬼か」(「常識人」とは言えても、とても「真人間」とは言い難い)と言った人々の心の眼が如何に真理に暗い無明・無知・愚痴であるかと言うことが明らかに成るわけです。

であれば、もう、そんな世間は心において捨て超える(執着を断ち関与しない)他は無いのではないでしょうか。

それが仏縁(求道心)のある者に対する釈尊の教えであることは、釈尊ご自身の人生の過ごされ方、あるいは釈尊の「自灯明・法灯明」の簡明な教えを学べば明白だと言えましょう。

出来るものなら、日本の各宗派のお寺・僧侶がその釈尊の教え(仏法)そのものをしっかり理解してくださった上で、それと結び付けた自分の宗派の仏道を説いてくださればありがたいがと思うのですが、それが出来る真の仏教徒であるべき僧侶はとてもとても寺の数ほどは居ませんのでね、寺・仏教はご覧のような惨状と成っているわけです。

であれば、真の仏教徒であろうとする者は自分で釈尊の教えを学ぶ他は無いわけですが、kさんは今、まさにそれを為さっていると言うことでしょう。その姿勢を崩さずに歩んで欲しいと思っております。

 

 Kさんのお母さんがどんな容体かはわかりませんが、共に仏法に救われて欲しいなぁと願っております。

 

 

 

 

5,私からKさんへのお願いごと  23,4,3 

 

私からKさんに、上記のようなKさんとのメールの交信を、「ブログに対するコメントのやりとり」としてブログに上げ、私のブログを読んでくださる方々への参考に供したいと思い、私からKさんへその承諾をお願いをしたところ、Kさんから次のような快諾のご返事をいただいた。

 

 

 Kさんからの返信  23,4,3

 

耳学問の私が、何時も心定まらずグラグラして居りましたが、「この世は何でも無い、あるがままで全てよし」のブログに沢山の勇気を得る事が出来ました。何度も何度も繰り返えされる説法に救われ、何か(自我の殻)がとりのぞかれて行くのを感じました(通過点なのですが)。感謝しか御座いません。私の様な遠回りの怠け者でもお役に立てる事がありましたら、身に余る光栄と恐縮に存じます。善導様には健康に留意され、これからもご指導のほど宜しくお願い致します。

 

 

2023,4,3

早速のご返事ありがとうございました。

では、Kさんとの数回のメールのやり取りを紹介する形でブログにアップさせていただくことにいたしますね。

ありがとうございました。いずれまた。 

 

 

 

6、 Kさんからのメール 2023,4,7 

 

自己(生命・身体)に執着する私はどこかで、無を有と考えて居りました。老荘や西洋、ヘラクレイトス・スピノザ・フッサール・ハイデガー等々の言葉も般若心経もうわべだけの理解だったと思われます。それが、浄土真宗の善導様のブログと出会い、法然上人と親鸞聖人の違いはなどとバチあたりな考えもよぎりましたが、何度も何度ものブログの内容が心にしみるようになり、過去の読み親しんだ物全てが善導様のお言葉で照らし出されるのに時間はかかりませんでした。浄土宗も浄土真宗も禅宗も元は一つ、大悲方便・衆生救済の釈尊の「知恵と慈愛」に辿り着くと繰り返し繰り返しブログに書かれてありました。それは、お釈迦様の衆生救済の知体悲用に気づきなさい、無執着で苦を離れなさいと言うことに他なりますまい。私も、病人が薬を頂いて飲みもせずに治ったような気に成っているようなことにならないよう、釈尊の知恵を燈し火としてまいりたいと思います。

 

 

 

私からの返信  2023,4,8 

 

仏教では、釈尊の智慧を灯とすることが仏教徒の目標なのですが、ただご覧の通り、人間は不可思議な因縁により、容姿・素質・能力・性格等、色々様々段々であるわけで、そのため釈尊の教えを聞いてもその受けとめ方も色々様々段々だと言うのが実情であるわけです。

そのこと自体は問題に仕様がありませんし、世間での常識的な仏教徒で満足できる人はそれでよしとする他はありませんが、真の仏教徒であろうとする者が釈尊の教えを正しく学ぼうとするとき大事なことは、仏教を大局的な見地から正しく理解すると言うことです。真仏である釈尊の教えは文字通り、途方もない深遠な教えですから、その解釈次第ではどのようにでも受け止められるからです。

そこで大事なのは、釈尊ご自身が説かれた「仏法」と、誰もが救われる仏教として説かれた「大乗仏教」との関係の把握です。

結論的なことを先に言いますと、「大乗非仏説」と言うことを鑑みた上で、釈尊の教えに耳を傾けつつ自分の仏道を樹立すると言うことの大切さです。

それは、大乗仏教は釈尊ご自身が説かれた教えでは無く、釈尊の後、数百年後、釈尊の教えを「誰もが救われる教えとして説くべきだ。それが釈尊の教えでもある」と言う大乗思想によって釈尊の教えを解釈したインドの諸仏(「覚者」を自覚した高僧たち)によって説かれた「方便虚仮なる教え」であることは明白だからです。

それはそうでしょうね。たとえインドとはいえ、釈尊のような真の仏がインドに二人も三人も生まれるわけはありませんから。

 龍樹菩薩や天親菩薩でさえ「仏」とはされていません。なのに、名も知れない大乗仏教運動下での「仏」たちによって大乗経典は編纂されているわけです。

そのような大乗仏教が中国の高僧方によって中国流に解釈されて日本に入って来、また日本の僧侶もかなりの方が中国仏教を学ばれていますが、要するに日本の仏教は全くの大乗仏教で、しかもそれは中国版だと言っていいわけです。

これからすると、近現代に至って誰もが釈尊の教えも学べるようになれば疑問が生じ、「大乗非仏説論」が生じて当然と言うことです。

であれば、心ある仏教徒では「どの宗派の教えが本当の仏教なのだろうか」と言った疑問が生じて当然と言うわけです。

であるものを、釈尊の説かれた仏法をしっかり学びもせずに、「自分の寺は何々宗だから…」と、仏教が何かもわからないままその宗派の門徒である振りをしているだけの虚仮仏教徒ばかりと言うのが実情であるわけです。

中国を経て日本に入ってきた仏教はみな、その大乗仏教と言うことですが、例えば、「悪人正機」を売り物とするかのような浄土三部経はその大乗仏教の典型だと言えましょう。一見、わかり易くて面白く読めますが、しかしその実、矛盾も多く難解なのです。釈尊の法の教えを学んだ上でならそのことがよくわかります。

例えば、真の無知・無明な凡愚らに「悪人正機」を説いたのでは、親鸞聖人も「薬あり、毒を好めと候ふらんことはあるべくも候はず」と心を痛めることに成るわけです。

その浄土教の大成者とされている中国の善導大師、そしてその教えを受けての日本の法然上人、親鸞聖人等は、どなたも健全強力かつ純真な仏性の心の働きを持っておられたからこそ、ご自身の我執煩悩を深く深く見つめることが出来、「悪人正機」の道を歩まれたのであり、その純真な仏性の心の故に(例えば、親鸞聖人は純真無垢の法身そのものである「無上成仏志願」をされたように)、自分のような罪悪深重な煩悩具足の凡夫では自力修行による成仏などとても適うことでは無いと深く自覚され、死後の成仏を当然のこととし、阿弥陀仏の本願の意味を深く感得されて他力信心の道を歩まれたのだと言えましょう。

しかしそれは浄土真宗の法話で常に語られるように、決して「数われ様の無い愚悪な煩悩具足の凡夫」だから数われたのではありません。超理知であれ超感性であれ、救われるべく健全堅固な仏性による求道心が働いていたからこそ救われたのです。

これを「悪人正機」とする「方便虚仮」として説かれた、その説かれ方に浄土教の見えにくいトリッキー的なところがあり、これが「難信な教え」と成ってほころびが生じるのですが、これには次々と方便虚仮が説かれ、それに気づいた者は先へ進めなくなってしまうのです。

親鸞聖人の愚悪さの深い自覚と、無常仏志願の落差の大きさにはいささかの違和感を感じますが、しかし、これこそは理知とは別の親鸞聖人の独特の感性の表れであり、浄土教が色々な意味で「難信の法」の教えだと言うことを百も承知の上でその難信の道を選ばれたところにそれが表れていると言っていいように思えます。

世間の仏教通の方の中には、その辺の所を「親鸞は潔癖すぎる」と言う方もいるようですが、それも虚妄分別と言わねばなりますまい。各人、それぞれでいいわけです。

また、善導大師も法然上人も親鸞聖人も、同じ浄土教(浄土三部経)の道を歩まれて救われた方々なのにその受けとめ方は少しずつ異なっておりますが、これもまた当然のことだと言わねばなりますまい。これは、いわゆる大乗仏教が、凡夫にわかり易い大乗仏教であるが故にと言うか、方便虚仮成る比喩的な事象としての教えであるために(釈尊の説かれた普遍的真実・真理・自然の法としての簡明な教えでは無いがため、あるいは対機説法として説かれた方便虚仮の教えであるために)、その受けとめ方も当然まちまちと成ると言うことは避けられないわけです。だから親鸞聖人は、ご自身が最も大事にし、精読された「無量寿経」でさえ、極めて選択的に読まれております。乱れや矛盾が少なくないからでしょう。

そしてまた、親鸞聖人は決してご自分の教えを門弟に強要なさってはおりませんし、親鸞聖人は一派を起こすおつもりも無く、只の一仏教徒であることを望んでおられたことが伺われます。

即ち、大乗経典は「仏説何々経」とされながら、その大乗仏教経典は主としてインドでの在家仏教者たちの中に生じた民主化運動にも似た大乗仏教運動の中から生じた優れた仏教徒たち(一応「覚者(仏)」を自覚した名も知れぬ仏たち)によって書き、編纂されたものであるとされており、読めばわかり易くて面白いが、そこには乱れ、矛盾も多く、とても「生きた真法」として読むことは出来ない難解なものと成っているわけで、だから上述の通り、浄土三部経の解釈もそれぞれの高僧によって異なるわけです。が、その事情は他の宗派でもはみな同じです。例えば、禅宗の二派は誰もが救われるわかり易い教えだろうか。天台宗って何の教え?真言宗の加持祈祷の教えはわかり易いの?と言った具合です。

特に、日本の宗派仏教は釈尊の教えによって大局的な視点から理解しないと惑わされるだけで、「船頭多くして船山に登る」の状態だと言えましょう。「〇〇学会」「〇〇の科学」等々も含めると、事実上、「仏教国」の日本は無宗教の国と言うことに成るわけです。みんな迷っているのですからね。

親鸞聖人は弥陀の本願を「大船」とされますが、それはこの世の「何でも無さ」を正見しつつも煩悩の消しようの無さを自覚した仏性の心ある者の場合に言えることであって、それがわからず物・カネ・愛等々の現世御利益を願って乗る凡愚の船は「藁をもつかむ」ようなことに成りましょう。

ところで、仏教を大局的に理解するとは、例えば最大公約数としての、「何でも無い。すべてよし」の釈尊の教えを掴むことだと言ったらいいでしょうか。これを掴んでいればどんな数字(宗派等の教え)にも惑わされることはありますまい。が、これを掴んでいないとどの数字が本当の仏教なのかわからないと言うことに成ると言うことです。

つまり、釈尊の説かれた仏教(仏法・仏道)が本当にわかっていないと宗派や会派の教えはむしろ仏教のネックと成ってしまい、一般の仏教徒は迷妄させられて、「仏教は難しい。わかんない」で、無宗教に陥りやすいと言うことです。肝心の法は説かれないからです。だから、一般の仏教徒が真の仏教徒であろうとするためには(真に人生苦から解放されるには)、釈尊の説かれた仏法をしっかり学ばなければならないし、それさえ分かっていれば、日本の宗派の仏道の教えはどれでもいいし、またみな捨ててもいいと言うことです。

要するに、大乗仏教の色々な教えもまた、法の下における「何でも無さ」のすがたなのであり「みんな違ってみな同じ」と言うことです。

 

私は仏教学としては全くの素人ながら、釈尊が折角、文字通り一切衆生を救うために「真理は一つ」として諸々の他の宗教を捨て、この世の現実・事実として働いている普遍的真実・真理・自然の法を解明され、「この世は何でも無いぞ。すべてよしの無分別・無執着の智慧を持て」と説き教えてくださっているのに、数百年後のインド・中国の仏教徒たちがそれを大乗仏教としてまた色々に方便虚仮で説いたために、衆生はその方便虚仮の宗派仏教に惑わされていると言うことでしょう。これは私の体験でもありますが、仏教の世界の現実もその通りに成っているとは言えないでしょうか。

世間では、教団・寺院・僧侶も、また門信徒も、「仏法とは難しいもの、わからないもの」と受けため、初めから投げていると言うことかもしれません。そして簡易なはずの仏道を説いているのでしょうが、仏法がわからずして仏道を歩めるわけは無いわけです。磁針や地図無しでは、曇り空の砂漠は歩めますまい。

「方便虚仮」(譬え話)を語るだけではなく、釈尊の説かれた法をこそ大事にして、「この世は何でも無いぞ」と言う普遍的真実・真理・自然の法を説けば、「明日は明日の風が吹く」と言う常識的真理とも通じ、「なるほど、だから無分別・無執着の心であれと説かれるわけか。わかった!」と成る人もいくらかは居るだろうにと思うのですが。

大乗仏教の思想である一切すべての衆生(人間)を救うのだと言う心意気は悪くはないとしても、それは仏性の心では無く、むしろ大乗仏教の経典を書いた人たちの「仏法はもっと平易に説くべきだ」とか、「人間のとしての死後への願望や期待をも含めた救いの道をも説き語るべきだ」と言うような我執煩悩まがいのチエによるものではあるまいかと言う気さえするのです。

それは例えば、大乗仏教は、「我々は人類の平和と発展のために悪を叩く戦争をするのだ!」と言うのと似たようなことを善意でやっているのではあるまいかと言う気がするのです。宗派仏教は「事象を説いて真理を説かず」と言った感がするのがそれです。あの世もこの世も、生も死も、善人も悪人も無いのが法の世界だと言う普遍的真実・真理・自然の法を欠いては仏教では無くなりましょう。

そういう意味で大乗仏教の思想は、元々の仏・釈尊の救いの根本精神から外れていると言えましょう。

仏性・求道心が不健全な大衆を対象としての「仏法を色々に説いてみんなを救いたい」は、「色々なことを説いてみんなを惑わせる」と言うことに成る点を見落としているのではあるまいかと言うことです。仏性が健全な者であれば、何をどう説いても聞き分けることが出来ましょうが、仏性の心が不健全では、簡明に説けば簡単で分からず、詳しく説けばなおわからずと言うことです。

私は浄土三部経の上っ面を学んだだけですから、それだけ大乗仏教を批判するのは間違いでしょうが、でも大乗仏教には多くの疑問を感じます。

インドの仏教徒も煩悩の人々であることは同じで、釈尊亡き後、他宗教の影響を受け、仏教は大乗仏教の名の下に俗化していったようです。

勿論、釈尊の説かれた粗削りの原始仏教が、特に龍樹菩薩の「中論」等で充実され、わかり易くなったほか、仏教教育上の体系として理論的に整備される等、大乗仏教の功績の大きさを否定するものではありませんが。

 

ただ、現実としては、どこの国の人々もみな「自我中心的虚妄分別」が大好きであり、真の仏教徒であろうとする人は居ないに等しく、まじめな人でも、「家の宗派は…」とか、「人がみんな仏教を大事にしているようだから自分も…」と言った程度のことで、先祖供養や世間づきあいとしての仏教であるため、どの宗派でも、仏教とは何かがわからなくても全く平気で居られるわけです(スマホを持たないでは生きて行けないでしょうが)。

そのような仏教徒は現状のままでもいいとして、私のブログは、仏に成る(成仏する)と言うことはともかくとして、「真の仏教徒として(真人間として)この世の普遍的真実・真理・自然の法に目覚め、一切の人生苦から解放されたいと思う有縁の方」に向けて書いているため、「自分の宗派の教えを聞いていれば何がどうなるのかと言うことなど関心は無いが、ただ先祖だけは粗末には出来ないから」と言うような、世間一般の宗派の仏教徒には向かないと思います。

「本願を信じて念仏すれば仏に成る」とか、「只管打坐」「心身脱落」「即心是仏」とかの言葉だけは知っても、その道のわけも目的もわからず求めず、日々の暮しは物・カネ・愛・地位・名誉等々へのべったり執着と言ったことでは、とても救いは成り立ちますまいが、それが普通の「常識的な仏教徒」だと言わねばなりますまいか。

そんな中、私のブログは、「世間のわけの分からない仏教はどうでもいいが、しかし、「明日は明日の風が吹く」としか言いようの無いこの世・世界・人生のそのわけ(真相)を知りたいなぁ。そのわけがわからないではとてもまともには生きられもしないが安心して死んでも行けないじゃないか」と言うような人(真人間)に向けて書いていると言うことです。

言い換えれば、私の仏教の求め方は、仏教を知識や教養として学ぶのでは無く、釈尊が解明して説かれたこの世の普遍的真実・真理・自然の法を学んで、「真人間としてまともに生きて死ぬ道」を正見・自覚し、無条件・絶対の安穏・快適な人生を歩みたいと言うこと、ただこれだけなのです。だから、釈尊が死後のことや形而上学的なことに関与されていないことにも大満足なのです。

 

 また、「仏法に救われる」とはどういうことなのか、あるいは「成仏」とはどういうことなのかの受け止め方は、仏教徒各人の心次第(因縁次第)だと言うことですが、この二つは、原則としては同じことなのだとしても、そのどちらも人によって見方、受け止め方は当然、色々に異なるわけです。

真の仏教徒として大事なことは、色々な教えのどこがどう違うかでは無く、自分の心を信託できる普遍的真理の法としての共通点(ポイント)はどこかを見つけることだと言えましょう。

私はそれを、釈尊の法の教えにより「この世の何でも無さ」を、「因縁・縁起」によって成る「無常・無我・空・中道」に見、それを「すべてよし」と領解したわけです。

となれば、「この世には問題など無い」は必然と成ります。それは「真理(真実)は一つ」の下、「一切衆生の共通基盤に立つ」と言うことでもあるわけです。

私はこの、「この世は何でも無い。すべてよし」の他に「一切衆生を救う大乗仏教などあり得ないであろうに」と思うのです。でも、そもそものこととして、「宗教なんか」「仏教なんか」と言った生き物人間か餓鬼の心では、「すべてよし」の他はあるまいと言うことです。

浄土真宗における「そのような救われ様の無い自分の愚悪を確信してこそ…救われる」と言うような救い方は大矛盾をはらんでいるため、とても私には理解に苦しんだのです。せめて、「自力での修行では煩悩は無くせないが、仏性の心である求道心が健全であれば、その心で他力の本願に投げ任せるべし」と言うような説き方をされればまただいぶ違うのですが。

親鸞聖人の仏性のレベルは超純真で、前記のようにその成仏は「無上仏」に成ることであったため(歎異抄第五章)、当然、その成仏は死後の成仏より他は無く、必然的に他力の道と成ったのでしょう。

が、それは釈尊の「人格者としてのこの世での成仏」とは全く異なりますので、正直言って死後の浄土往生(成仏)など、とても心の及ばない私には、仏である釈尊の「この世など何でも無いぞ。普遍的真実・真理・自然の法によってこの世の『何でも無さ』」を正見・自覚し、無分別・無執着の(智慧・信心の)心を用意して無条件絶対の安穏・快適な存在と成れ」との簡明な教えが性に合い、これは必要にして十分な教えだったと言うことです。

いずれにしても、釈尊は、善人悪人では無く、また死後の成仏では無く、仏性の心(求道心)の働く有縁に対してあくまでも今生における救済の道を説かれたのであって、「救い様の無い者」に対して法を説かれたわけではありません(勿論、救いを求める者に対しては対機説法により常識的な教えもたくさん説かれてはいますが)。

いずれの道であれ、仏教に関しては仏性の心の働きがカギ(因縁)と成ります。

世間では、まじめな人ほど虚仮・虚妄・嘘・欺瞞な「世間常識」を大事にして迷妄・苦悩・地獄に陥る人が多いと言うのも、仏性の心の働きの無さの哀しさが思われます。

要するに、ごく稀なる有縁を除いて、「人間(人類)は煩悩する生き物である」と言うことです。これは差別でも偏見でもありません。それが現実・事実としての普遍的真実・真理・自然のすがたなのです。その我執煩悩ぶりは政治一般、安倍元首相事件、あるいはウクライナ戦争、コロナウイルス対策、そして科学技術開発等々全く同じだと何度も書いてきました。

 

因縁・縁起の法によって成るこの世・世界・人生では色々であり、それを浄土(安穏・常楽の極楽)とも、また穢土(迷妄・苦悩の地獄)とも説かれるわけですが、しかし、この両者は右か左かのように並び立つ存在では無く、同じ世界であることはお気づきかと思います。

言い換えれば、浄土とは、普遍的真実・真理・自然の法によって成るこの世と言う無限大の宇宙世界の極々の一隅にありながら、不可思議な因縁により我執煩悩の殻を破って法の世界に目覚めた、心も及ばず、只絶句する他は無い無分別・無執着の「智慧の心の世界(真如・一如)」に目覚めた者だと言え、これに対して穢土とは、その法によって成るこの世と言う無限大の宇宙世界の極々の一隅にあって、その法もこの世も自分自身もその何たるかを知らずわからず、只、小さな狭い我執煩悩の殻の中に閉じこもって「何でも無い」この世・世間を「葦の髄から天井を覗く」式の虚妄分別をしながら我が物顔で歩き回り迷妄・苦悩・地獄に明け暮れているウジ虫(夏の虫、イワシなどとも)のような只の生き物の世界だと言うことです。

月を仏としたら、「生き物人間か餓鬼か」と言った人間の存在は、ドブネズミやモグラやミミズやアリ等々と同じ存在だと言うことに成りましょうか。

そして、「この世・世界・人生など何でも無い。あるがまま、成り行き任せですべてよし」などと覚った風なことを書いている私は何なのかと言えば、それは「井の中の蛙」と言ったところのように思えます。

それは、いささかの求道心の働きに恵まれて仏の教えに目覚めたカエルが、「そうなんだそうなんだ。何でも無いこの世では、カエルはカエルでいいのだ」と言うことに気づき、「何でも無い。すべてよし」の暮しが長くなったものだから、身は迷妄・苦悩・地獄の井戸の中に置き、我執煩悩もうごめいてはいながらも法・仏の強烈な光明に照らされておとなしくしているため、これまでのところ何の問題も苦悩も無く、心は常に求道心に導かれて普遍的真実・真理・自然の法の紺碧の青空を仰ぎつつ「すべてよし」の「中道」の大道を歩み、日々安穏・快適な日暮らしをさせて戴いていると言ったところだと言ったらいいのでしょうか。

そんな私自身には「成仏」と言う観念は説法上の方便の他にはありません。我執煩悩の心を抱えたまま普遍的真実・真理・自然の法に包まれた自分を自覚し、「何でも無い。すべてよし」の心の世界(真如)で暮らす身は、仏でも真人間でも生き物人間でも餓鬼でも無いからです。「あの世」も「この世」も同じと見ている私には、死後の成仏には一層に関心が湧きません。

つまるところ、私の仏法の領解は、「この世・世界・人生など『何でも無い』。すべてよし」が根幹、あるいはすべてと成るわけです。

このことを概ね理解してくださっているKさんには、もう多くを語る必要は無いように思いましたが、このブログを読んでくださる他の方々のため、またkさんには「ダメ押し」のつもりで、敢えて繰り言を書いてみました。思いつくままに加筆したため、いつもの通り文章は乱れておりますが、kさんのこれからの求道において、私の求道体験が参考になれば幸いです。

 

すっかり陽気な、春本番となりましたね。お母さんの看護は大変だと言えば大変でしょうが、「何でも無い」と正見・自覚することが出来れば「何でも無い」(当たり前の)ことと成りましょう。

どうか、「何でも無いこの世・世界・人生」を、ありのまま、無分別・無執着に真受けして、安穏・快適に過ごして頂けたらと思っております。 

 

 

 

7,Kさんからのメール  2023,4,8

 

「釈尊の智慧と慈悲に繋がる『何でも無い』」

 

自らのチエと認識であらゆる事柄を理解しようとする態度は迷いそのものだとブログで説いて頂き、迷いを迷いと理解する事が出来たように思います。ありがとうございました。生の本質を忘れそうになる時はブログを反芻させて頂きます。

 

 

 

(その後のメール交信の加筆)

 

8,Kさんからのメール  2023,8,5

 

 「何でも無いと瞑想(坐禅)の日常」

 

「何でも無い」とは、すべての事象が法のすがたであると言うことですから、分別の言葉(概念)から離れ、あるがままを生きる道であり、六識を感じてもそれから離れ、捨て超える道ですから、ほぼ毎日瞑想(坐禅、歩行禅)を心掛けて居ります。坐禅は臨済宗の寺院で、以前からやってはおりましたが、自宅ですと何時でも時間を気にしなくて済みますので…。

 瞑想なのに、時々若い頃からの山歩きが心に浮ぶことがあります。登山ではしばしば、全体を通してでは有りませんが、ただ無心に両足を動かしている時があります。何も考えていない頭が空っぽの時間、あるいは苦しい呼吸に神経を集中させる場面など。下界に居る時の方が余計に何かを考えていたように思われ、ふと風や雲や樹木や小鳥の声等が悦びでありました。

「今、ここ」に一体となって、その事にも気づかずに、自分でも無い「何でも無い」ものになっていたように思います。「何でも無い」に、一番素直な自分だったかも知れません。コロナ以降山に行く機会はありません。これからもご指導くださいますようお願い致します。             

追伸 私も国家公務員でした。   

 

 

 

私からの返信  2023,8,6

 

メール拝見しました。

 安らかにお過ごしのようで何よりと思います。そしてそれが、「自分でもない、何でも無い心において」とあれば、しめたものですね。「坐禅をしなきゃ」「念仏を称えなきゃ」と言うようなことでは、まだまだと言うことでしょうが、自分自身の生死が、朝夕の訪れと同じように「何でも無く」感じられるように成ったら、まさに仏道も本物だと言えましょう。

 只今、世間では木原官房副長官についての疑惑が問題に成っているようですが、「何でも無い」事象であることには変わりは無いとしても、安倍元首相や木原副官房長官の「何でも無さ」は、仏道における「この上ない安穏・快適・常楽」の「何でも無さ」とは正反対で、大きく異なるようです。

 それでも殆どの人々は、迷妄・苦悩・地獄の「何でも無さ」の世界から足を洗おうとはしません。

 お盆が近づいてまいりましたが、死者・先祖の供養など訳の分からないことをやってないで、自分自身の「今日は明日の今日では無い今日・只今をどう生きるか」の求道をした方がいいのではあるまいかと思うのですが…。

 

 

 

Kさんからのメール  2023,8,6

 

 いつも御指導ありがとうございます。

「何でも無い」のお言葉(ことばを超えた釈尊の慈愛、法を伝えんがために繰り返された説法)に、今この「衆生」としての心が安らぐのを覚えます。時間が立つほどに、それはどんどんと大きくなりました。

 哲学でも仏教歴史学者の書でも、また仏教の宗派寺院での法話をいくら聞いてもなかなか真の仏道としての得心が得られない日々でしたが、そんな中、善導様は「自分自身の内の宝の心(仏性の心)によって「この世の何たるか」に疑問を持ち、仏法にその道を求め、その『何でも無さ』に気づき、迷うことなく事象を捨て超える仏道を歩み、一段でも仏の智慧と慈悲に近づき、自他共に心豊かな人生を生きようじゃないか」と語りかけておられるように感じました。それは自己の内の真人間としての真心を育て、その真の自己を頼りとして生きる道と言うことなのでしょう。その道理をブログで繰り返し繰り返し説かれている善導様のお姿に慈しみを体感し、法・因縁の中で共に生きるものへの釈尊の智慧と慈悲を深く感じる思いが致しました。

 以来、少しずつではありますが、他(外側)を見ても、そのありのままを因縁・縁起によるまことのすがたと見ることが出来るようになって静かな心が保たれ、穏やかな時間を過ごすことが多くなりました。

 特に、この世の「何でも無さ」を指し示す「縁起・無常・無自性(空)・無執着・利他」に心が向かうときは、寂静の安らぎが得られて居ります。我執煩悩を脇に置いた無欲状態の時、一切分別仕様の無い、大自然の「何でも無い」法則の中であることに気づかされるのです。

 これも、二千数百年もの間、多くの方々が絶やさずに伝え続けて来たからこそ、それが私にも恵まれて救われたのだと思うと、不可思議な因縁に感謝せずにはいられません。ありがとうございました。

 

 

私からの返信  2023,8,13

 

「おらが宗祖(仏教)」的、諸々の宗派の独善的匂いのする教えでは無く、真の仏である釈尊の説かれたこの世の普遍的真実・真理・自然の法に目覚めた真の仏教徒が一人増えたことをうれしく思います。

これからも共に求道・精進を楽しんでまいりましょう。