大方の予想に反して、ウクライナ戦争は長引きそうであり、かつその成り行きが世界に及ぼす影響もかなり大きくなりそうである。

  そんな中、「プーチン大統領はおかしい」、「否、ゼレンスキー大統領もあまり賢くない」とか、「歴史的には…」、「否、NATOが…」とか、イデオロギーやプロパガンダがどうだとか、あるいは戦況や今後の見通し等の自我中心的虚妄分別や評論等々、相変わらずの「何でも無い」事象の、そのまた枝葉末節的な報道ばかりで賑わっている。

 

 まともな人間としての心が働けば、そのような迷妄・苦悩・地獄ぶりを見ていて思うことはそんなことでは無く、「一体、こんなことをやって誰が勝ち、誰が負け、誰が得をし、誰が損をするのか。それに誰が正しくて、誰が間違いで、誰が幸せに成り、誰が不幸に苦しむのであろうか」、「否、そもそものこととして、一体、この世とか人間とか人生とか何なのか」、「人間は一体、何のために何をやっているのだろうか」「こんなことが国家あるいは世界の指導者としてやるべきことなのか」と言った根本的大きな疑問や問題が生じるのを抑えられないのではあるまいかと思うのだが、このような真人間らしい問題については全く問題にされず語られもせず、ただ物・カネ・地位・名誉・勝負、あるいは「あいつが」「こいつが」と言ったことばかりで、決してこの世をこの世たらしめているこの世の普遍的真実・真理・自然の法に心を向けようとはせず、そのごたごたした「何でも無い」事象に翻弄された虚仮・虚妄・嘘・欺瞞な自我中心的虚妄分別合戦での喜怒哀楽や毀誉褒貶が他人事のように報じられ語られるだけで明け暮れている人間世界の無明・無知・愚鈍ぶりは見事と言う他は無い。まさに「衆生」「世間虚仮」「人生苦」の原点がそこにあると言えよう。

 ここにおける最大の悲哀は、その無明・無知・愚痴による迷妄・苦悩・地獄ぶりを見て「これが人間・人生と言うものだ」と妙に納得してしまい、そのいずれかに加担したり「対岸の火事」とこそすれ、それを「他山の石」としてそのような人生・世界から解脱する道を求めようと言う気配は全く生じられないと言うことである。

 これでは人類世界から人間関係や国際関係での争いやテロ・戦争と言った迷妄・苦悩・地獄の人生苦が絶えないわけである。

 個々人における暮しは言うまでも無いが、只今展開されている新型コロナウイルス、ウクライナ戦争、安倍元首相暗殺事件、統一教会騒動等々に見る世界・国家的迷妄・苦悩・地獄ぶりは、まさに「生き物人間か餓鬼か」と言った世界だと言わねばなるまい。

 

 ここで「真人間で在りたいと思う者」とは、例えばそのような物・カネ・愛・地位・名誉・家族・子孫・国家等々と言った「何でも無い」事象世界において、その有無、成否、善悪、損得、勝負、あるいは生きるか死ぬか、殺すか殺されるか等々と言った迷妄・苦悩・地獄の人生を、「人間も生き物だからそれが当然だ。これが人間・人生と言うものだ」と言うような「生き物人間か餓鬼か」と言った人間世界の常識的な見方に対して深い大きな疑問を抱き、「そんな生き方が真人間の生き方であろうはずはあるまい」と、そこから解脱する道(解放される道)を求める仏性の心からの求道心が沸き起こる者と言う意味である。

 少し具体的に言えば、勝っても負けても地獄しか生まない殺し合いの戦争をするより、どうせ早晩死ぬ儚い命、「何でも無い」この世・人生なら、「無抵抗でも侵略する、殺すと言うならそのまま殺された方がまだましだ」と言うのが真人間であろうと言うことである。

 今日、人類が聖人として仰ぐ孔子・釈尊・ソクラテス・イエス等はどなたもみな、世間の「生き物人間か餓鬼か」と言う者たちの前で「何でも無いこと」の様に自らの命を投げ出した方々であった。だからこそ、そのような方々の在り方、生き方を崇め尊び、その教えに学ぼうとするのが論語、仏教経典、聖書等々であろうものを、その教えは「どこ吹く風」の信者や教徒ばかりと言うより、むしろそれらの教えを敢えて曲解しての迷妄・苦悩・地獄道ぶりである。

 自分(たち)の命や人生を犠牲にしてでも、「あいつが」、「こいつが」と言う怒りや憎悪・怨念を晴らすことの方が大事であり、「この正義と意地を貫いてこそ人間としての生き甲斐なのだ。これでなければ意気地なしだ」と言うような「生き物人間か餓鬼か」と言った根性の人間を「真人間」と呼ぶわけにはいくまい。

 他の動物たちは自分で喰いもしないのに他の命を奪うような卑劣なことはしない。彼らは「生き物」ではあっても「餓鬼」では無いのである。

 餓鬼とは、死後、地獄に落ちて尚、貪欲・憎悪・怨念等が煮えたぎって争い戦っている地獄の住人のことであり、「我利我利亡者」のよのように呼ばれる存在だと言われる。 

 つまり、もうこの世と言う世界には居ないはずの者なのであるが(だから生き物では無い)、にもかかわらず貪欲・怨恨を抑えられず迷妄・苦悩・地獄をこの世でつくり出す存在だと言うことである。他の生き物にはそのような「餓鬼ぶり」は無い。つまり、餓鬼とは他の生き物には見られないおぞましい人間のことだとされる。「あいつは人間じゃない。餓鬼だ!]と言うのがそれである。

 「生き物人間」とは、「戦争は出来れば避けるべきであろうが、人間世界ではやむを得ず戦争をしなければ成らないこともある。場合によりけりだ」と言うような煮え切らない、まさに我執煩悩煩悩で迷妄するなまくらな、ごく普通の常識人のことだと言えようか。真人間で在りたいとは思いつつその一歩足を踏み出せず物・カネ・愛・地位・名誉等々へなびいてしまい、他方、戦争等への餓鬼道へは案外となびきやすい人間、これが生き物人間であろう。常識人ではあっても真人間とは言えない。政治家は勿論、学者、裁判官、上級官僚、言論人等、レベルの高い知的常識人の殆どはこの「生き物人間」と言うのが実情であろう。彼らの分別とは、どこまでも「生き物人間としての知的生存欲レベル」での分別なのである。

 私の言う(仮称)「真人間」とは、この世の普遍的真実・真理・自然の法に心を沿わせて生きようとする者のことであり、具体的には「老少不定の死」を正見・自覚して生死を捨て超え「仏道を生きる者」と言うことである。仏教徒は多しと言えど、真の仏教徒(真人間)はどこに居るのかと言うった状態であるのはご覧の通り。

 であれば、「生き物人間か餓鬼か」と言った常識人では「勝てる戦争ならやろうじゃないか。でも勝ち目が無ければ止めた方がいい」と言うことであろうが、真人間とは、勝っても負けても争いや戦いは迷妄・苦悩・地獄より他に得られるものは無いと言うことの分かる人間だと言うことである。まして、死を覚悟して戦うなど言語道断と言う他は無い。

 人間世界における大統領とか首相とか、学者・評論家とか、あるいは大富豪とか有名人とかの著名人・成功者とされる人たちは、無明・無知・愚痴な単細胞的「生き物人間か餓鬼か」と言った、勝つか負けるかの世界における勝者・成功者なのであって、ここで言う「真人間」としての道における勝者・成功者では無い。

 つまり、世に言う成功者とは、歴史を見れば明白なように、「生き物人間か餓鬼か」ではありながら他者より多少小利口なため、他の99.9パーセントの人々の命や人生を犠牲にしたり押さえつけたりしての勝者・成功者だと言う、言わば餓鬼大将なのである。

 だが、彼らはその「生き物人間か餓鬼か」の暮しに生きがいを感じて止められないと言うことであり、またその国民大衆もその大方が愚鈍な「生き物人間か餓鬼か」であるため、そのような餓鬼大将を称賛したり崇め奉ったりするのである。滑稽と言うより悲哀と言う他は無いが、それが「生き物人間か餓鬼か」と言った常識人間世界の実態であるのはご覧の通りである。

 現に、只今のウクライナ戦争における関係者は、濃淡はあれ、その戦争にどう関わることで成功者であろうとしているかと言う者たちであり、彼らはみなキリスト教徒なのではあるまいか。そまわりの者たちもそのどちらに付くべきかと言う自分の成功の道を探ると言ったことばかりに腐心していると言うか、むしろ他国の大統領や首相らはウクライナ騒動を楽しんでいるのかのような感さえする。特に、米・英・仏の指導者たちは。

 そして我が国は言えば、かっての明治維新以降、「西欧かぶれ」の下、日清・日露戦争において味を占め、「生き物人間か餓鬼か」の野望を抱いて満州に侵攻すると言った大きな過ちを犯し、その延長線での因果としてアジア太平洋戦争において瀕死の敗北を経験し、以降八十年近くを経過してもなお真の独立国と成れない状態であるにも拘らず、その日本国政府はそれに懲りることもなく、完全な平和憲法を持ちながら相変わらず「生き物人間か餓鬼か」のチエでの算段しか出来ない全くの体たらくぶりである。勿論、仏教徒を含めた大方の国民がそれだからであることは言うまでも無い。

 

  と言い切ってしまっては私の心にも引っかかるものがある。と言うのは、このようなことを書いている私も、中高生の頃は何が何だかさっぱりわからない生き物人間だったのだから。

 が、それこそ不可思議な因縁により、たまたま仏法を学ぶ縁に恵まれ、それがもう長いものだからつい偉そうな書き方に成ってしまっていることに気づくことがあるが、しかしここで一々遜った書き方をしていてはそれこそ嫌らしい卑下慢好きな常識人に成ってしまうのでそれは避け、「この世の何でも無さ」に気づかせていただいた一仏教徒として、頬っ被りをせず思いのままを書いているのである。

 そして、その一仏教徒として偽りの無い思いを書けば、それは、自分あるいは家族・国家社会・人類を健全に育み生かす道は、決して断じて他と争い、戦い、殺し合うことでは無いと言うことである。それは自分や家族や国家を滅亡させる道ではあっても、決して断じて人間としての命と人生を大事にし国家を守る道では無い。

 「生き物人間か餓鬼か」と言った常識人の言うその「争い、戦い、殺し合いの戦争に勝って世界の平和と幸せを実現する」と言う愚劣極まりない国の守り方をキッパリ捨てることこそが、唯一、自分や家族・国家社会・人類を守り育てる道であり、真の幸せの道だと言うことは、これこそ絶対の真実・真理・自然の法、即ち仏法の教えなのである。が、こんな明白な道理がわからない「生き物人間や餓鬼」だから釈尊はそれを「無明・無知・愚痴」と呼ばれるのである。

 私も高校生のころまでは「真理は一つ」のその一つの法がわからなかったのだが、幸いなことに、それがわからない自分であることに気づいて求道心を発芽させる心はわたしにも潜んでいたようである。

 そこで釈尊の教えである仏法を学んでみると、それは「この世・世界・人生など何でも無いぞ。このことを正見・自覚した無分別・無執着の智慧の心であれ」と言う教えだと言うことがわかり、私は「これだ!」と言う思いから、ささやかながらそのまねごとをしてこれまで過ごして来て、その真実性を日々実感しているところである。

 そして、そのようなこの世・人間世界におけるまともさの完全に欠落した虚仮・虚妄・嘘・欺瞞な世間の常識とそれによる人間世界の迷妄・苦悩・地獄ぶりをいやが上にも見せつけられる日々の中で私がつくづく思うのは、「あゝ、仏縁に恵まれてよかったなぁー」と言う深い感慨であるが、それと同時に、苦悩しているのか楽しんでいるのかわからないが、そのような迷妄・苦悩・地獄に明け暮れている多くの人たちに仏の救いの教え(私のブログも含めて)を届ける(理解していただける)すべが無いことのもどかしさを払拭することが出来ない。

 が、そこで仏教では、仏の心は「四無量心だ」と説かれる。

 即ち、仏の「慈・悲・喜・捨」の四つの無限大の心の中の「捨」の心である。冷淡なようには思えても、仏教徒としての道を歩む者は「この世の『何でも無さ』を正見・自覚し、あるがまま、成り行きまかせですべてよし」の無分別・無執着の智慧の心で、この世・世間・人生を捨て超えることに徹しなければならないと言うのが「捨」の心である。

 それはそうであろう。慈悲の心も決して捨てることは無いが、さりとて無縁の者が救われないことを嘆き悲しんでなどいては様に成らず、とても仏とは言えまいからである。

 それに第一、この世・世界・人生を見ればわかる通り、法によって成るこの世・世界・人間・人生と言うものは、天気と同様、因縁によって只転変としているだけの、実に(何でも無い)「無常・無我・空」なる事象であり、だれが何時、無縁から有縁に成るかもしれないのであり、「すべてよし」とする他は無いからである。

 そういう意味で私は、無明・無知によって迷妄・苦悩・地獄の世間道をわが道と確信している「生き物人間か餓鬼か」と言うしかない常識人に対して「仏道はどうですか」と語りかけるつもりはない。「馬を川に曳いて行くことは出来ても(水を飲みたくない馬に)水を飲ませることは出来ない」と言うように、道を求める心の無い者に「道を求めてはどうですか」と語りかけるのは無駄でもあり、また相手も迷惑なことだろうからである。

 即ち、「『何でも無い』この世は、あるがまま、成り行くままですべてよし」と言う他は無いのである。

 「生き物人間か餓鬼か」と言った常識人はご覧の通り、どこにでも居り、「喜怒哀楽」や「毀誉褒貶」に翻弄されながらそれなりに人生を楽しんでいると言っていいのであろうが、仏教国と言われながら仏性による求道心によって仏道の人生を歩み、無条件絶対の安穏な暮らしをしている人はどこに居るのだろうかと思う程に数は少ないが、しかしそれでいいのである。

 即ち、仏教とはあまりにも当然なことながら、「この世・人生等何でも無いぞ。あるがまま、成り行くままですべてよしだ」と言う教えであり、善悪、賢愚、損得、幸不幸、戦争平和などありはしないどころか、生死の分別さえしない智慧の心で生きるのが真の仏教徒だからである。

 

 それを少し詳しく書けば、これも前に何度か書いたことではあるが、仏教で説く仏法は、理屈抜きで目の前の現実・事実として働いている因縁・縁起と言う普遍的真実・真理・自然の法である「真諦」であるのに対して、人間世界における常識的な分別・観念は誠心誠意のつもりではあっても、それは無知・無明・愚痴な生物人間としての生存欲(我執煩悩)のチエであり、悉く「生き物人間か餓鬼か」としての欲望・感情・理性による虚仮・虚妄・嘘・欺瞞な分別である「俗諦」だと言うことである。

 例えば、私たちは人間を見て「Aさん」、「Bさん」と言う様に呼ぶが、この世にはそのような人は居はしないし、「人間」と言う生き物も決して実在するわけでは無い。事象としては人間としての姿をしていても、その心・人格は犬猫・牛馬にも劣るようなものも珍しくない。

 だから仏教では人間も含めて、生き物すべてを「衆生」と呼ぶのであるが、実はその「衆生」も実在するわけでは無い。有情と無情(生物と無生物)の境は無いからである。日本・韓国・中国・アメリカ・イギリス等々の国も人種も実在しないのは言うまでも無い。

 即ち、雲は雲では無く、水は水では無く、りんごはりんごでは無いのである。人間世界で用いられているそのような名称・観念・理論等、一切すべての言葉や名称、思想は、何らかの因縁によってそう名付けられただけの、約束事としての仮称(虚仮・虚妄)に過ぎない。このことはつとに常識と成っているはずである。

 そのような人間世界の約束事(言葉・常識的分別・観念)による仮称を、仏教では「俗諦」と呼ぶのである。世俗世間における決まり事・約束事と言う程の意味であるが、それは世間での約束事と言う常識・規範ともされるため、それなりに大事であるから「俗諦」と呼ぶのであろう。

 しかし、その世間常識としての俗諦は、生き物人間か餓鬼かと言った無明・無知・愚痴な常識人の我執煩悩のチエによる虚仮・虚妄、そしてかなりのものは「建前と本音」等の噓・欺瞞でもあるから、その常識を基準・規範として構成されている、例えば憲法や法令、そしてこれに基づく国家社会等がとてもまともに運ぶわけが無いことはご覧のとおりである。憲法や基本的人権、あるいは自由民主主義等々の世間常識を大事にすればするほど迷妄・苦悩・地獄は深まり避けようが無いという事情(道理)がここにある。

 勿論、裁判で事件やもめ事の真実・真理がはっきりすっきりするなど断じてあり得ないことである。この世の普遍的真実・真理・自然の法を知らず求めず無関心な無明・無知・愚痴な「生き物人間か餓鬼か」の常識人世界では、裁判も国会審議も「虚妄分別ごっこ」での勝負より他に道は無い。そこで物を言うのはカネ・権力・頭数である。このことは民主国家でも独裁国家でも同じであることはご覧の通り。

 それに対して、そのような迷妄・苦悩・地獄世界から解放されるための道を歩もうとする求道心では、この世の普遍的真実・真理・自然の法(因縁・縁起)によって成るこの世・世界・人間・人生における一切の事象をひっくるめて丸ごと見、それを「真如」「一如」「実相(無相)」等と呼ぶ。これが「真諦」である。

 つまり、「真諦」とは、法である「因縁・縁起」によって成る宇宙世界の「無常・無我・空」のことであり(これを私は平易に「何でも無い」と表現しているのである)、だからこそ、仏・釈尊は、いたずらな迷妄・苦悩・地獄の人生から解放される道として「無分別・無執着の智慧の心の存在で在れ」と説かれたのである。

 そして、その「無分別・無執着の分別の智慧の道(仏道)」は「中道」として説かれる。この「中道」が、仏・釈尊の解き明かされた普遍的真実・真理・自然の法によって説かれた人生苦から解放されるための具体的な道と言うことに成ろう。 

 

 そのような仏法の観点からこの世・世界・人間・自分・命・人生等々の事象をつぶさに振り返って見てみれば、私たちが常識として何の疑いも無く大事大事として分別しつつ、命と人生を懸けて他と争い戦っている物・カネ・愛・地位・名誉・家族・子孫・領土・国家等々の「何でも無さ」(実体の無さ)と、その虚しさに気づけるのではあるまいか。

 例えば、有と無は、事象としては正反対の意味であるが、真理としては一体だということである。それは紙の表と裏は一体で切り離せないというのと同じである。善も悪も、成も否も、賢も愚も、損も得も、貧も富も、右も左も、幸も不幸も、生も死も、戦争も平和も、一切すべての事象は真理としては一体なのである。

 まして基本的人権や自由民主主義、社会共産主義等々の思想やイデオロギーが生き物人間としてのチエによる虚仮・虚妄、妄想・妄念であるの言うまでも無く、そのような人間のチエによる自我中心的な虚妄分別とそれに執着した人類世界の常識・規範(国連憲章や各国の憲法等)では、迷妄・苦悩・地獄より他には生じ様が無いことは明白だと言わねばなるまい。言わば人間の思想・分別は、夜見る迷妄・妄想の夢と同類なのであり、それが「心(脳)」と言うものの本質なのである。

 だが、そのことがわからず、わかろうともせず、わかりたくもなく、ただ「煩わしい悩み」だけを生むその心(仏性による求道心の働かず、自我に執着した心)を、仏教では「我執煩悩」と呼ぶのである。

 この世・世界の一切を「真諦」として見る仏教では、それを「真如」「一如」等と呼ぶのは、一々の事象は常に移り変わり、流れ去っていて一切分別する暇がなく、「如し」と言う他は無いと言うことを意味しているのである。だからそのことは「一即一切・一切即一」とも説かれる。

 「人体は小宇宙である」と言われるのもそれであろうが、原子、そして近年盛んに論じられている「量子力学」としての電子・原子核・クオーク等の素粒子の世界も、畢竟するところ「空模様の如し」とか「人の心の如し」と言ったような「如し」とか「真如」とか言うより他には収拾のつく話ではあるまいと思われる。

 このような普遍的真実・真理・自然の法である「因縁・縁起」によってこの世・世界・人生を丸ごと正見し、それを自分の見識として確立した心が智慧なのであり、そこでは当然のこととして問題や苦悩など生じ様が無い。だから仏の智慧、あるいは智慧に代わる信心を獲たものは無条件絶対の安穏・快適・常楽の存在と成れると言うより、いやでもそう成ってしまうのである。そのような真如の世界から来生した仏のことを「如来」(如より来るもの)と呼ぶのはそのためであると言う。

 それはそうであろう。この世の普遍的真実・真理・自然の法に適っている智慧、あるいは信心の心では、「あるがまま、成り行くままですべてよし」と言う無分別・無執着の心と成るのは必然であり、問題や苦悩など生じようが無いから。

 が、仏縁の無い者(仏性の心での求道心の働きの無い者)は、事象に関する物理には多少長けていても(例えば、鉄で作った船を水に浮かべたり、巨大な飛行機を空中で飛ばせたりすることは出来ても)、そもそもの、普遍的真実・真理・自然の法としてのこの世と自分自身の「何でも無さ」を知らない無明・無知・愚痴であるため、船や飛行機を造るチエを、他と争い、戦い、殺し合って幸せに成ろうなどと言うとんでもない愚を働くチエにも使い、しかも何と、これが人類社会の常識と成ってしまうと言うことである。このような味噌と糞の分別のつかないチエには手の着けようは無く、これで民主政治をやったらどうなるかは二千年以上も前のギリシャ時代からわかっていたことなのである。

 心ある者は、そのような「生き物人間か餓鬼か」の世間はそっと捨て去る他はあるまいぞと言うこと、これが釈尊の実践された「中道」と言う仏道であり、そしてそのことを「世間虚仮・唯仏是真」として書き遺されたのが聖徳太子なのである。

 科学だ、技術だ、ITだ、AIだ、量子コンピューターだと言うが、物・カネ・人間(自分自身)・命・人生等々の「事象の何でも無さ」がわからない重症の認知症に陥っている人類の無明・無知・愚痴ぶりを見ていればその成り行きは想像がつくと言うものである。

 

 釈尊の時代には、ここまで細かくはわかっていなかったであろうが、今日では人間の身体も、酸素・炭素・水素・窒素等々、諸々の素粒子・元素が衆縁和合して人間として誕生し、ほんのしばらくの間、他の生き物と同様に命を保っているだけの存在なのであり、死によって水蒸気・煙・遺骨・灰等と化し、そして次なる衆縁和合によってまた何らかの事象へと生まれて行くだけの、実に「何でも無い」事象なのである。この世と来世が同じであることは考えるまでも無い。(ただ釈尊は、来世があると考えている者のために、対機説法として「過去世・現世・来世」に分けて縁起の法を説かれてはいるが、これは昨日、今日、明日と言い換えても同じである)

 今日、物理的事象世界のことは俗諦(世間の常識)とし科学的にかなり解明され、当然のことのように色々に分別され、人間の暮しが便利になった面はあるが、しかしそれは先にも少し触れたように兵器・軍事力として開発される場合も多く、人間を迷妄・苦悩・地獄に突き落とす働きもしている。否、その働きをさせているのである。それが「生き物人間か餓鬼か」のチエなのであり、まさに人類の英知とは、「迷妄・苦悩・地獄を味わうためのチエ」なのである。

 だが、二千五百年もの昔インドに生まれた釈尊は、科学的な裏付けも不十分な中、ご自身の比類なき透明度の高い無限大の心の器量、明敏な頭脳、鋭い観察力や洞察力等によって肉眼で観察することの出来る範囲での食物連鎖、太陽の下における自然界での転変するすがた、人間関係における喜怒哀楽・毀誉褒貶の心の転変ぶり(迷い)等々の事象世界の中から、この世の普遍的真実・真理・自然の法としての「此縁性」(因縁・縁起)を、この世の事象世界(形而下の世界)の普遍的真実・真理・自然の法として見抜かれ、今日の科学に先駆けて事象世界の「無常・無我・空」なること(その「何でも無さ」・「(分別不可能な)不可知性」)を解明されていたのである。

 先の紙の表と裏の話で、表と裏は決定的なことでは無いと言ったように、生き物人間のチエによる自我中心的な分別では何事も「良いがあれば悪いがあり」「便利なものは不便である」と言うことである。

 そこで釈尊は、仏性の心によって求道する者が一切の人生苦から解放されるための道として、その、この世の「何でも無さ」を正見・自覚した無分別・無執着の智慧、あるいは信心の心を用意して世間の常識も生死も捨て超え、絶対自由平等の心で臨機応変・融通無碍なる「中道」(仏道)を歩み、無条件絶対の安穏・快適・寂静なる存在と成れ、と言う救いの道(仏への道)を説き教えられたのである。

 

 なお、釈尊はこの世・宇宙と言う事象世界を超えた世界(形而上の世界・あの世)については一切関与されず、「無記」あるいは「捨置記」とされているようである。

 この点は、生き物人間の知識欲(知的煩悩)による分別感覚からすれば、一見、物足りないように感じるかもしれないが、釈尊は、この世・世界・人生と言う目の前の現実・事実としての形而下の事象に関する普遍的真実・真理・自然は「因縁・縁起、無常・無我・空・中道の法」として正見・自覚することが出来るが、この世をこの世たらしめているこの世の普遍的真実・真理・自然の法を超えた「形而上のこと」、例えば、その普遍的真実・真理・自然の法は誰が定め、誰が操っているのかと言うようなことは、もう人間の観察・思考・思惟の及ぶところでは無いと言うことを正見・自覚され、関与されなかったのである。即ち「捨置記」である。

 この釈尊の、生き物人間としての物・カネ等々の事象に関する知的煩悩から完全に離れ、普遍的真実・真理・自然の法と一体化した仏の智慧では、形而上の世界についての「捨置記」はあまりにも当然なことだったのであろう。そのキッパリさっぱりした、真っ正直で潔い、透明度の高い合理的精神こそは、この世の普遍的真実・真理・自然の法に通じた釈尊ならではの仏性の心なのだと思え、私の場合、これによって仏教の信憑性は(分別することの出来ないはずの創造主の神の心の世界を善悪等で教条的に説く人間預言者等のチエによる他の宗教の我執煩悩ぶりに比べ)グーンと高まっているのである。

 そのことを、孔子の「知らざるを知らずとせよ。是知るなり」と言う教えに倣って言えば、釈尊の見解は「わかり得ないことはわかり得ないとせよ。これわかるなり」と言うことであり、更に言い換えれば、「何でも無いものは何でも無いとせよ。これ智慧なり」と言うことに成ろう。わかりようの無いものを凡夫の無明・無知に付け込んでさも明確なことのように説く宗教の多い人類世界において、仏教ほど頼りになる救いの教えは見当たらないが、今後もこれを超える教えは生じ得ないであろう。まして科学者、政治家等の「生き物人間か餓鬼か」のチエにおいてをやである。

 仏教(釈尊の教え)こそは、生き物として存在する人間の至高・究極の智慧・真智であろうと私には思え、インド・中国と言う東洋の思想・智慧の崇高さに敬服する所以である。

  

 だが、殆どの人間(人類)はこの世の普遍的真実・真理・自然の法には関心も興味も抱けない文字通りの無明・無知・愚痴な生き物人間であり、物・カネ・愛・地位・名誉・健康・家族・子孫・国家等々の「何でも無さ」(その代表を例えばノーベル賞としておこうか)には疑問も抱けず、疑いもせず、否、仮に問題や苦悩を抱いていてもそれを解明して真人間としての道を歩みたいと言う仏性の心での求道心の働きが生じないため、この世・人生の何たるかを問い求めることも無く、永遠に生きられるわけでは無いことは承知していながら我執煩悩を断ち切れず、永遠に生存し続けられるかのようなあやふやな思いを祖先や祖国、あるいは子孫と言った妄念に託して執着し、他との争い、戦い、殺し合いを正当化させ、自分自身や家族・子孫・国家を迷妄・苦悩・地獄に導くと言う、実に訳の分からない妄想・妄念に翻弄された日々に明け暮れているのである。これは全く以て正気の沙汰とは考えられないことなのであるが…。

 しかも、そのような願望が思うようにならないとあれば、我執煩悩に急き立てられて、これまた訳の分からない絶対的存在と妄想する神にまた自我中心的な欲望・願望を祈願するという「無いものねだり」の駄々っ子ぶりであり、何がどうあっても決してこの世の目の前の現実・事実として働いている普遍的真実・真理・自然の法を求め向かうことは無い。

 だが、このような徹底した無明・無知・愚痴な我執煩悩による自我中心的な貪欲な心には、さすがの神もお手上げのようであり、神への祈願が成就することはまず無い。気休めの他には。

 だが、仏性の心による求道心が働かない生き物人間だとあっては「何でも無い」物・カネ・国家・軍事力等々を頼りとする他は無く、その延長線上での、到底分別することの出来ない将来とか祖先・祖国とか、あの世(来世)とかの自我中心的妄想に陥ることは避けられないのであろう。

 その国では偉いはずのプーチン大統領やゼレンスキー大統領もご多分に漏れず、どうやら殺し合いの戦争を正義だと考えているようであり、その先には祖先・祖国・天国みたいな妄想を描いているのであろうか。他の国々の政治家や我が国の首相も全く同じであることは言うまでも無い。そして案の定と言うべく、かっての我が国の国家神道と同様、どうやらロシア正教も同類のようである。いずれも、只の無明・無知・愚痴な我執煩悩による白昼の悪夢であることは明白なのだが。

 

 さて、只今のところ、世界の目はロシア・ウクライナに向けられているが、しかし、生き物人間か餓鬼かと言った事情は世界中いずこも同じなのであり、今日では仏教発祥の地であるインドを含めて仏法の通じる国(指導者)は無いようで、どこもかしこも「あいつが」「こいつが」と血迷っている迷妄国家ばかりである。

 かって日本は、自国も同類であることには気づかず「鬼畜米英」と叫んでいた。そして只今はご承知の通り友好国である。即ち、歴史と言うものの「何でも無さ」でもある。そして数年後はまたどうなるとも知れない。

 いずれにしても、この世の「何でも無さ」を知らない無明・無知による自我中心的虚妄分別では、迷妄・苦悩・地獄の再生産の道の他はあるまい。

 近年の国際情勢からすれば、とても「人類の夜明け」は望むべくもないが、しかし、これもそのままがこの世の普遍的真実・真理・自然の法(因縁・縁起)によるすがたなのだとすれば「この世・世界・人生など何でも無い。あるがまま、成り行くままですべてよし」と領解する他はあるまい。

 それは、普遍的真実・真理・自然の法によって成るアフリカの動物たちの喰いつ喰われつの在り方のままで善でも悪でも無いと言うことと全く同じである。

 

 ただ、ここで虚しさを堪え、敢えて希望的な見方を書けば、生き物人間か餓鬼かと言った人間世界では自分知らずの無明・無知な自我中心的虚妄分別で自分に不都合な相手を批判するのが常ではあるが、しかし何かの因縁が絡めば紙の表と裏はひっくり返されることもあるように、因縁次第では立場や事情が変わり、例えば「否、おかしいのはプーチンでは無くNATOの方だった」と言う風にも成りかねないのが、この世の「何でも無さ」でもある。

  考えにくいことではあるが、今後、万が一のこと、プーチン大統領が日本に対して、「北方領土を返すから、我が国の経済復興に力を貸してくれないか」と言われたら、日本はどうするのであろうか。

 明日はどこの誰が敵と成るか味方と成るかはわからない。「世間虚仮」なる事象を生き物人間の我執煩悩のチエで自我中心的に分別したり評論したりなど虚しい限りである。

 只今のウクライナ戦争を見て、「そら見よ、次は台湾だ、尖閣だ。だから憲法改正だ、軍備増強だ。人口減ではどうにもならない。子供を産ませよ」と言うような生き物人間か餓鬼かのチエでは無く、「こんな世界だからこそ、日本は政治的には断固中立の道を行くのだ。それが独立国日本の日本らしさである。真理と平和の道を行くわが国には敵も味方も無い」と言う「真理と平和の国・日本」を世界に示す絶好のチャンスだったと言えるのだが、現状はとてもとてもの感である。

 先にも少し触れたが、明治維新以来、軍国主義国家を目指し、今日までの日本が全くの「生き物人間か餓鬼か」と化してしまったことがその主原因だと言えなくもない。勿論、江戸時代がすべてよかったと言うわけでは無いが、内外の戦争を断固排除して民生を図ったと言う点は可とすることが出来よう。特に、温和な神道や仏教や儒教が保護され、日本ならではの真人間らしさと言っていい精神文化が育ってきた点は高く評価されていいであろう。仮に今日、世界の中で日本が高く評価されている点があるとしたらそれであろう。

 ところが、それが明治維新政府の無明・愚策によって「廃仏毀釈」に見られるように「産湯とともに赤子まで流す」の愚行が為されたのである。そして先の敗戦まで、「産めよ増やせよ」の「国民は鉄砲の弾」だったのである。これが「餓鬼」でなくて何であろう。

 私は農家の長男として生まれたし、能力も学費も無かったので大学への進学を望んだことも無かったが、例えば東大や京大等で学んだ学者や官僚、裁判官、政治家等に成った人たちが何をやっているのかがわかると、いよいよ進学の興味は無くなってしまった。まして、海外の有名大学で学び、箔をつけて帰って来た人たちが何をやっているのかを見ると、むしろ今日の大学は全く要らざるもののように思えてくる。それはまさに、金権名利の立身出世を目的としただけの「生き物人間か餓鬼か」の道だと言うことがはっきりして来たのである。そしてそんな彼らが国づくりをすればどう成るかはもう書くまでもあるまい。

 だが、国民自体が無明・無知・愚痴な「生き物人間か餓鬼か」と言う中での民主主義とあっては、国民より少しばかり小賢しい政治家等が毛ばりで国民を操って自己の名利を貪るのはさして難しいことはあるまい。

 ただし、因縁・縁起の世界では勿論のこと、政治も権力も国家も空行く雲と同様、「何でも無い」事象に過ぎない。 

 政治形態や国家体制の如何を問わず、あるいは戦時下でも平和時でも、幸せな者と不幸な者は居るし、居た。生き物人間や餓鬼に「真理と平和の道」と語っても詮無いことであるが、真人間として真の人生を歩みたいと言う心ある方には、仏法の道をお勧めしたいと言うことである。 

 だが、その仏教徒も戦わねばならない。真の仏教徒であろうとする者においては仏性の心が主導していることではあろうが、当然のことながらそのような者でも生き物人間としての生存欲である我執煩悩は旺盛であり、真心(仏性の心)と我執煩悩との葛藤は避けられないからである。ここにおいて、仏教徒の在り方も、実に色々様々段々となる。

 

 思えば、1945年8月15日以降の戦後は、日本人のみならず、世界中の人々が、「もう戦争はこりごりだ。何がどうあれ、戦争だけは絶対やってはならぬ」と言う思いであったはずである。そしてその頃は誰も、思想・哲学・宗教への関心が強かった。

 だが、やがて戦後復興が成り、物・カネ・愛等々に浮かれ始めた平和時には、物・カネ・愛・映画・歌・カラオケ等々に浮かれ、それに絡んだおかしな宗教も盛んと成り、「宗教は危ない。仏法とか真理とかそんなものは…」と言った風潮が主流を占めるようになり、そして束の間の経済大国に浮かれた後バブルがはじけ、再び、三度、現今のような混沌とした時世と成っているのであるが、こんな時代だからこそ、また幾人かでも「この世・世界・人間・人生・国家・幸せって、一体、何なのか」と言うことに疑問を抱ける人も居るのではあるまいかと思うのだがどうであろう。

 「栄枯盛衰世の習い」「庄屋、三代続かず」と言う。時代・世代は巡る。しかも現代はその巡りが時間的に速い。人類世界は戦後の三世代(75年)が過ぎて一巡しつつある。人類はまたぼつぼつ戦争をやってみたくなってきたのであろうか。やはり第三次世界大戦が起きないと次の平和志向は芽生えないのかもしれない。しかし、大戦争は避けられても大地震や火山の大噴火等は避けられまい。

 だが仏性の心(求道心)さえ働けば、どのような大事が生じても生じなくても、恋愛・家庭・職場・世間等、日々の暮らしの人間関係での苦悩においても「この世・世界・人生の何たるか(その何でも無さ)」に気づける機会はいくらでもあろう。

 殺したり殺されたり、あるいは自殺したりと言うことが日常茶飯事であるが、そこまで追い詰められてもまだ仏法に向かう気には成らないとは、よくよくの無縁なのであろうか、それとも寺院や僧侶の在り方に問題があるのであろうか。

 いずれにしても、この世・世界・人生のことはすべては因縁次第、心次第だと言うことである。自分自身の無明・無知・愚痴な心を問題にすることが出来ないのでは、これはどう転んでも人生苦から解放されることは望めまい。一切の人生苦(喜怒哀楽・毀誉褒貶等での迷妄・苦悩・地獄)はすべて、自分の心でつくられているのだからである。

 と言うと、争い事の当事者は共に「やりたくてやっているのじゃない。相手がおかしなことを言う(する)からだ」と言いたくもあろうが、しかし、争いや戦いが成り立つと言うのは、賢・愚や、善・悪では無く、互いに犬か猿かと言った似たもの同士だからこそ成り立つのである。やりたくない心が本当なら、けんかや戦争は成り立ちはしない。

 だが、この世の普遍的真実・真理・自然の法に向かう心の働かない犬猿では、自分自身が犬か猿かだと言うこともわからない無明・無知・愚痴であるため、「俺はまともなのだが、あいつがおかしいから…」と双方で批判し合うことに成る。

 互いに無明・無知・愚痴な似た者同士だからこそ批判し合い、貶し合い、争いや戦いが成り立つのである。政治家をはじめ、多くの学者や知識人・マスメディア・言論人等、いわゆる常識人は生き物人間か餓鬼かと言った人であることは度々書いて来た。日本国憲法第九条を変えようと言う人たちもそれだと。

 であれば、犬か猿かと言った感じの生き物人間や餓鬼には、それぞれ好きにやってもらう他はあるまい。アフリカの動物たちはそっとして置くのが一番賢明な対処の仕方であるようにである。

 要は、頭の良し悪しでは無く、心の素直さと透明度と器量なのである。即ち、この世の普遍的真実・真理・自然の法と与する仏性の心によってこの世・世界・人間(自分)・人生と言うものの何たるかについて求め向かう求道心が健全に働くかどうかということが仏教徒の根本的原動力なのである。

 心ある方は、虚しさの他には生じようの無い、虚仮・虚妄・嘘・欺瞞に満ちた世間の常識(世間体・毀誉褒貶)など捨ててわが仏道を行くべきであろう。

 関連して書けば、ユーチューブ動画では我執煩悩絡みのノウハウやハウツウ的な虚仮仏教が盛んにアップされているようであるが、仏教は知識や音楽やお笑いでは無い点には注意して欲しいと思う。知的煩悩を満足させるだけならそれでもいいかもしれないが、仏教は仏の道を人生として歩む智慧の道の教えであるから、その覚悟で道を求めている人は、そのような、見た、聞いた,知ってる的な見聞学習で間に合うわけは無い。当然のこととして人生を仏道の道場として生涯歩み続けるのが仏教徒なのである。知識なら動画でも得られるが、仏の教えを理解し初歩的な智慧でも身に着けるには、やはり本などの文章を何度も何度も読み返しながら自分の心を耕すことが不可欠であり、しかも数十年はかかる。

 課題はやはり、「この世・世界・人間・人生とは何か」と言うことを正見・自覚した智慧の涵養であろう。これを欠いていては迷妄・苦悩・地獄より他には生きようがあるまい。

 私はそれを仏・釈尊の教えから「この世は何でも無いぞ。あるがまま、成り行くままですべてよしだ。このことを仏法によって正見・自覚した無分別・無執着の智慧を用意し、無条件絶対の安穏・快適な心の存在であれ」と言う教えとして領解している。参考になれば幸いである。

 このことを知った上で奈良や鎌倉の大仏さんを拝めば、意義深いものと成るのではあるまいか。

 

  いずれにしても、因縁・縁起のこの世では、自分の心のすがたや言動が因縁と成って何らかの事象を結び、それが自分の心に跳ね返って来ると言う縁起は避けようが無い。

 因縁・縁起とは、事実上「不可思議」と言う意味なのであり、言わば宇宙団子と言うか、宇宙を万華鏡と見ての真理のことであるから時間・空間的にも普遍なのでありり、何時、何処での何が因と成り、何時、何処での何が縁と成って結びつき、それがどこでどのような果(事象)を生じるかは見当のつけようが無い。

 勿論、生き物人間のチエでも経験則から多少のことは学べるので、自我中心的な分別でもすべてが全くの見当外れと言うことは無く、当たることもある。

 例えば、「柳の下にはドジョウはいない」と言うのも一つのチエではあろう。が、ドジョウがいるかいないかは掬ってみないことにはわからない。ここに「無分別・無執着」の分別の大事さがある。

 太平洋戦争(真珠湾攻撃)の思惑は外れた。ウクライナ戦争が長引いているのもそれであろう。そして共に、どんな結果と成っても「すべてよし」でケリは着くのであり、「すべてよし」でしかケリはつかない。

 例えば、ウクライナ戦争の継続も、「何でも無い。すべてよし」の智慧さえあれば、即解決する。ならば、戦争を始める前に「すべてよし」の心を用意するのか賢明だと言えよう。これが仏の教えである。これとは反対に「負けては成らない。勝たねばならない」の、「ウクライナの次は台湾だ。そして尖閣・沖縄だ。だから軍備だ!」は、文字通りの餓鬼道であろう。広島・長崎はもう忘れたのであろうか。

 何事かで人を殺し、殺された加害者・被害者の双方が共に真に救われるには、虚仮・虚妄・嘘・欺瞞な法令や生き物人間のチエによる裁判所の判決や訳の分からない神の裁きでは無く、「この世・人生など『何でも無い』ぞ。案ずるな。無明・煩悩による自我中心的虚妄分別への執着の迷いから目を覚まし、『すべてよし』の法に目覚めた智慧あるいは信心の心で生死を捨て超えよ」と言う仏の教えの他にはあるまい。

 「ウクライナに早く平和が戻ってくることを願う」と言う人は多いが、その言葉は、「俺は祖国のために命を捨てて戦う」と言う言葉と同様、その心に「まともさ」(真実・真理・自然の裏付け)が無いため、実に虚しく哀しい。

 冷淡・無慈悲なようでも「すべてよしだ。無分別・無執着の心で在れ」こそは、仏の智慧と慈悲による普遍的真実・真理・自然の法による、真の大乗の救いなのである。

 

 これからの時代は情報通信機能や交通手段、食糧生産等、色々な面において一層不透明さが増し、産業経済・政治・世間常識等が洪水の如くに濁流し、命も暮らしも混とんの中と言ったことに成りそうである。そして近いうちに大地震も必ず生じると言う。

 「あなたはそれでも、そんな迷妄・苦悩・地獄の生き物人間世界に自分の可愛い子を産みたいと思いますか」と、改めに問いかけてみたい。真人間としての心ある方なら、親のエゴ(我執煩悩)により、ペット感覚で子供を産むなど罪なことだと言うことがわかるのではあるまいか。それとも、わが子に生死を捨てて生きる道を説き教える自信があるのであろうか。

 生き物人間か餓鬼かと言った常識人のチエでは、「人口が減ってしまっては産業経済でも武力での戦争でも戦えまいし、大勢の外国人が入ってきては日本国が乗っ取られてしまうではないか」と考えるかもしれない。これが人間世界の大方の常識ではあろうが、人口が増えて戦争をすれば(やれれば)その国は繁栄して存続するとでも思っているのであろうか。ご覧の通り、どこに国でも生まれてくる子は常に「生き物人間か餓鬼か」であることを承知しておかねばなるまい。

 ほんの少しでも智慧が働けば、自分の国は地球だと考えることはそれほど難しくはあるまいと思うのだが。その時、自分の国は「人類万歳!」と言えるような様をしているのかと言うことである。世界で覇権を握ろうとしている国があるとすれば、それは無明・無知・愚痴な国民とその指導者だと言うことを立証するだけのことである。

 空模様か万華鏡かといった「何でも無い」物・カネの産業・経済・金融・軍事力等々の数字だけでしか人間力・国力を見ることが出来ない無明・無知・愚痴な生き物人間世界の右往左往ぶりを見ていれば、人類世界には絶望し、普遍的真理の法に依拠する他は無いのではあるまいか。それが仏の救いの教えなのだと言っていいであろう。

 

 そんな生き物人間か餓鬼かと言った世界における唯一の救いは、やはり、「この世は何でも無いぞ。案ずるな。すべては消え去って行く。あるがまま、成り行きまかせですべてよしの無分別・無執着の智慧・信心の心で捨て超えて行け」と言う仏・釈尊の教えの他はあるまい。

 この心が具われば、プランクトンのような自分でも、即、心は永遠不滅の普遍的真実・真理・自然の法に融合帰入してしまい、「人間?、そう言えば、どこかの惑星にはそんな生き物も居るらしいな」と言うことに成りはしまいか。

 人間とは人格のことであろう。そして人格とは、精神・心の質のことであろう。物・カネの嵩や知識・地位・名誉・家族子孫・人口の数値しかわからない心では、「人間としての力である人格・心・精神・智慧・信心の心」は計れまい。

 仏教は、その人間の心・精神の在り方を問題にした教えなのである。その心を聞法・求道・禅定によって智慧・信心を確立せよと教えるのである。

 自らに「老少不定の死」の「何でも無い」存在の人間が、空行く雲のような「何でも無い」物・カネ・愛・地位・名誉・家族・子孫・国家等々を自我中心的に虚妄分別して追い求めてどう成る、と言うことである。 

 只今のウクライナ戦争も全くのそれであろう。領土など地球表面の流動模様に過ぎず、空行く雲と全く同じだと言うのに、政治家たちは一体何を考えているだろうかと思うのだが、只々、自分の只今の金権名利を確保するために国民を欺き、「何でも無い」事象を「あいつが…」「こいつが…」、「もっともっと…」、「まだまだ…」、と言う野放図な生存欲で何十万、何百万と言う人々の命の犠牲を当然のごとく強いるのである。

 名利に命と人生を懸けている「生き物人間か餓鬼か」と言った政治家・軍人はその迷妄・苦悩・地獄を楽しめるのかもしれないが、善良・無知な多くの国民はたまったものではあるまいと言いたいが、それが国民の選択だとあれば、やはり「何でも無い。すべてよし」とする他は無く…。

 

 あくまでも真人間として真の人生を生きて行きたいと言う(仏性の)心の働く人に対してと言うことには成ろうが、争い、戦い、殺し合って何が生まれ、何が獲られるのかと言うことを考えてみて欲しくて、また繰り言を書いてみた。 

 毎日の車の運転や電車・飛行機等の選択もそうであるが、何を食べるか等々の生活習慣をどうするか、その仕事をどう処理するか、結婚するかしないか、相手は誰を選ぶか、子供は等々、「明日は明日の風が吹く」より他は無い「何でも無い」人生では、良くても悪くても人生における一挙手一投足の一切すべては自分自身の心(分別・判断)に掛かっているのである。

 そんな「何でも無い」人生では、よくよく注意をしたがために大けがをした、命を失ったと言うことだってある。そして、どう転んでも早晩、老・病・死は免れない。

 であれば、自分の人生を、そんな取り留めようの無い、空行く雲のような「何でも無い」世間の事象(世間の常識、人の心)にまかせて翻弄されて生きるよりも、朝夕や四季の巡りのような、否、もっともっと安定不変なこの世の普遍的真実・真理・自然の法(仏法)の「真如」「一如」に据えて生きる方が、無条件絶対の安心・安穏・快適な人生が得られようと言うことである。これが仏・釈尊の救いの教えなのである。この他には仏教などありはしない。

 ただ、真仏である釈尊の教えを、後の仏教徒たちが我執煩悩絡みの分別で「大乗仏教」として解釈したり、方便を弄して虚仮仏教と説いたりと言うことのため、「虚仮成る世間」では一層に何が本当の仏教なのかさっぱりわからないと言うのが実情であり、よほど健全な仏性の心による求道心が働かないことには真人間としての道もなかなかではある。

 釈尊の教えによる、この世の「何でも無さ」を正見・自覚した心では、「この世には問題など無い」の心で安穏・快適・常楽に通過できよう。

 この世・世界・人間(自分)・人生の何たるかも知らず、自分自身の心・手足さえ思うように動かせず(病気と言うことでは無い)、今日か明日かと言う絶対必然の自分の死さえ覚悟できていない人間が、自分の子孫・人口減・国家・尖閣諸島・軍備の増強、あるいはG6、G7、IT、AI、量子力学等々による人類の将来等々、来年の天気のような「何でも無い」事象を気遣うような妄想を楽しんでいる暇など無いのではあるまいかと思う。まず、只今の自分の心を整えるべきであろう。

 今日、只今のウクライナ戦争に続くここ数千年の「人類の迷妄・苦悩・地獄ぶり」を見ていて心が曇りがちに成るのは、何時の時代でも次々を生まれて来るのは「生き物人間か餓鬼か」だと言うことである。

 この点は「人間・人生とは一体何なのか」と言うことで法を求める真心(求道心)が働かないことには無理かもしれないが、人類の歴史や現状を見て、それでもわが子をこの世に産みたいのか、それとも、こんな人類世界で迷妄・苦悩するだけの人生をわが子には歩ませたくはないなぁーとの思いが生じるかと言うことである。

 はっきり言って、この点は仏教の視点での「自分自身の何たるか」を知るうえで大事な視点であろうかと言う気がするのである。

 

 少し長くなり過ぎたが、勿論、仏道と世間の常識道のどちらが善いか悪いかを言っているのでは無い。

 因縁・縁起の法の下における「何でも無さ」はいずれも同じであり、普遍的真実・真理・自然の法によるすがたであることに変わりは無いのだが、ただ、以上のようなことから、「人間世界ってどうしてこうなんだろう。もっとましな生き方は出来ないのだろうか」と言った大きな、深い、真人間としてのまともな疑問を抱ける方には、只今のロシア・ウクライナのように、あるいは諸国の政治・社会のように、あるいは只今の自分の境遇のように、何ともかんともしれない、そして何がどっちに転んでもまともには成りようの無い「生き物人間か餓鬼か」と言った無明・無知な我執煩悩による迷妄・苦悩・地獄の世間道を、「これが人間・人生と言うものだ」とそこに座り込んだり、それに不本意ながらについて行ったり腐ったりするのでは無く、また、あいつが、こいつが、政治が、社会が…でも無く、そんな訳の分からないこの世・世界・人間(自分)・人生と言うものの何たるかを正見・自覚出来ていない自分自身の心の無明・無知・愚痴を問題として道を求め(仏法を学び)、それでもワイワイガヤガヤとやってるだけの政治やメディアの群盲と共に迷妄・苦悩・地獄の常識道を生きて行くのか、それとも、何がどうあっても問題や苦悩と成り様の無い、例えば空行く雲や水や杉の木のように生死を超えた完成度の高い存在を目指して、無条件絶対の安穏・快適な智慧あるいは信心の道(仏道・中道)を真人間の道として「犀の角のようにただ独り歩んで行く」のかを、自分自身の人生の課題として確かめてみていただけるとありがたいのだがと言うこと、ただこれだけである。