何故か。
 それは、真実・真理・自然の法を見ず(見えず)、刻々に移り変わってゆくだけの「何でも無い」空模様のような物・カネ・愛・地位・名誉等々の事象を自我中心的に虚妄分別してそれに執着し、他と比べて優位に立ち幸せに成ろうと頑張ること(他と競い、争い、戦い、殺し合うこと)は、迷妄・苦悩・地獄を生むだけのことだと言うことがわからないからである。
 「喜怒哀楽」「毀誉褒貶」と言うのがそれである。これは「人生模様・その何でも無さ・人間の迷妄ぶり・人生は苦なり」を言った言葉であるが、大方の人間にはこのことがわからず、そんな人生を何か素晴らしいことのように思っては居まいか。そして「来世では往生を…」と願う。虚しすぎまいか。
 元来、生き物である人間には、物、カネ、愛、地位、名誉、家族、子孫、国家等々、あるいは命・人生そのものが「何でも無い事象」に過ぎないことを正見することは大変難しいためであるが、「何でも無い事象」に執着たのでは、それを追い求めて手に入れることも、維持することも、失うことも苦と成って当然であろう
 だから、仏教では「真実・真理・自然の法を見て、無常・無我・空なる何でも無い事象を見ることなかれ(分別・執着することなかれ)」と説くのであるが、「生き物人間か餓鬼か」と言った世間の常識人は、真理の法には興味は無く、物、カネ、愛等々「何でも無さ」が見えずそれに執着してしまうのである。
 では、この世の普遍的真実・真理・自然の法に生きよと説く仏教では何を見よと言うのかと言うなら、それが「この世の何でも無さ」である。それをわかり易くほんの少し極端にえば、国家・人類は言うに及ばず、いずれは地球も太陽も消えると言うことである。「それは何十億年も先のことであろう」と言うなかれ。今日か明日かも知れないのである。そうである。自分の死と共に自分にとってのこの世の一切の事象は消えるのである。
 そうである。無明・無知・愚痴な人間は我執煩悩による妄想の中で大事な「只今の人生」を迷妄・苦悩・地獄にしてしまうのである。仮に自分の子孫が百代続いたとしても、人類が一万年続いたとしてもみな、同じことを繰り返すのである。哀れ・愚劣と言う他はあるまい。
  そんな明白なこの世の「何でも無さ」(真実・真理・自然の法)を見えにくくしているのは、ひたすら生きようとする生き物人間としての欲望・感情の生存欲、即ち、無知・無明・愚痴な自我中心的「我執煩悩」と言う心の働きなのである。
 ただ、生き物人間でも、物・カネ・愛等々があれば幸せになれると言うわけでは無いことは、うっすらとは「わかっちゃいるのだけれど、やはり物・カネ・愛が欲しい…」と言うのが、聞き分けのない我執煩悩の働きである。だから仏教では、この無知・無明・愚痴な我執煩悩の心を、人生苦の根源と見るのである。
 これは、真理に向かおうとする仏性の心が健全に働いていないことには、この我執煩悩を打破することは難しく、、したがって、迷妄・苦悩・地獄の人生から解放されることも難しくなる。
 「将来のわが国の子孫の繁栄のために物・カネを確保し、敵国を倒して…」と言うことを、「そうだ、そうだ!」と言うなら、無明な我執煩悩であり、「相手を倒したり、押さえたりすれば、将来にわたって争いを残すだけだ」と言うことがわかるのが、真理を見る仏性の心だと言えよう。
 だが、現実としては、仏性の働くものは僅少であるため、世間常識あるいは民主主義社会では当然のこととして、物・カネ・争い・戦いに勝って幸せをと言う迷い道の方を選んでしまうことに成る。これが普通であり、今日では、イスラム国等々によるテロの応報等、世界の現実である。我が国も、その仲間入りをしようと言う段取りのようである。
  が、「我が国・国民を守る」と言うことのために、どれだけの国民が犠牲に成ったかを見れば明らかであろう。戦争をして何が獲られたのであろうか。
 我執煩悩の心では、歴史の見方も、自我中心的な妄見となる。
 この世・人生の「何でも無さ」を知らないために、幸せを求めるつもりで、折角の人生を争いと戦いの迷妄・苦悩・地獄にしてしまっているから、仏は、それを「無知・無明・愚痴」と呼んで戒めているのである。
 それとも、みんな、迷妄・苦悩・地獄を楽しんでいるのであろうか。
 
 また、バングラディッシュで悲惨な事件が起きたが、これもそれである。
  バングラディッシュと言えば貧困の代名詞のように言われているが、貧困が惨事を起こしたのではない。人間の無明な心が起こしたのである。そしてそれは、物・カネに恵まれて豊かな暮らしをしている無明な人間が招いたのでもある。
 共に、物・カネさえあれば幸せだと言う無知・無明・愚痴な我執煩悩による自我中心的な虚妄分別が起こするである。
 物・カネに恵まれた者の「隣の貧乏は鴨の味がする」と言う、優越感に浸った得意げな顔は、恵まれない者の「隣に蔵が建てば腹が立つ」者の怒りの心を刺激するからである。共に、真理の見えない煩悩の心である。
  争い、犯罪、テロ、戦争等は、恵まれた者と恵まれない者の、愚者の共同作業による惨事である。
 勿論、物・カネには限らない。愛欲、地位、名誉、健康、長生き、家族、子孫、国家等々、何かに対する欲望への執着は、悉く、苦悩・地獄を生む。
 何故なら、そのようなこの世の事象は空模様のような「何でも無い事象」に過ぎず、思うようには成らないものと言うことを正見出来ていないからである。物、カネ、愛があれば幸せに成れると言う、真実・真理・自然に対して無知・無明・愚痴な、歪んだ、汚れた、自我中心的な心が、羨みやねたみ、憎しみを生むのである。
 
犯人たちは、やはり「神は偉大なり」と叫んで犯行に及んだようであるが、それは口実で、自我中心的な恨みであることは明らかである。が、これはアメリカがこれまでやってきた戦争の「聖戦」と同じである。人間の欲望・願望でつくられた神では当然、そう言うことに成る。
 キリスト教、イスラム教圏の宗教は、どうしてもそう言う傾向を帯びやすい。
 「我が国は」、「わが民族は」というような人間の自我中心的我執煩悩を打破する、「何でも無い命・人生」、「みんなちがって、みんな同じ」と言う、現実・事実としての真実・真理・自然を共通基盤とした文化が人類の文化と成らない限り、富める者も貧しい者も共に、迷妄・苦悩・地獄道を強いられることに成る。自分の心でそれをつくり出しているのだからである。
 
 私が中学二年の時、歴史の先生が言った心無い言葉が忘れられない。
その先生は、「世間の人は私に、『先生、あんたたちはいいたな。骨おらんで高い給料をもらえて羨ましい』と言うので、私は、『あんたたちも先生に成ればよかったのに、なし、あんたたちは先生に成らんじゃったんへ』と言った」と言うのである。
 「売り言葉に買い言葉」としてはそれでいいのかもしれないが、それが「先生」の言うことであろうかと、さびしかった。
 
 恵まれた人たちや先進国の国々は、例えば難民やISの人々に、「愚痴をこぼしたり自爆テロをやったりなどしてないで、せっせと勉強し、働き、稼げばいいではないか、それをしないお前たちが悪いのだ。自業自得だ」と言うのも同じであろう。
 共通基盤に立てば、「自業自得だ」と突き離すことは出来まい。 
 
 誰もが学校の先生に成ることは出来ない。どこの国もが先進国に成ることは出来ないのである。
先進国の中でも、必ず格差は生じ、恵まれない人は生じる。
 即ち、事象としての差異・格差は防ぎようが無い。晴れと曇りと雨が無ければ天気に成らないのである。善悪ではない。ただ偏に「真理」なのである。
 だから、どんな先進国でも経済大国でも、あるいは大富豪でも、首相でも大統領でも同じように死ぬ。これが真理による事象の「何でも無さ」である。
 地球上でも、年中寒いところ、暑いところ、四季がめぐるところがある。日本でも、豪雪で苦労している人は、温かい九州、沖縄へ移住すればいいのにと言う考えもあろうが、そうではなく、豪雪に耐えて楽しく暮らす知恵を働かせることが出来るのが人間であろう。
 そのチエ・知恵を、この世の真実・真理・自然に照らして最高度に高めたのが、仏の智慧なのである。それがあまりにも偉大であるから、それを太陽の光に譬えて、「智慧の光明」と呼ばれる。人間の蝋燭のようなチエの灯りとは違うのである。
 その仏の智慧で世界を見れば、当然のこととして、「いずこも同じ。住めば都」と成る。貧富どころか、生死も超えた智慧である。これでは、迷妄・苦悩・地獄とつくるのは難しい。
 人間の幸せの求め方は、夏には冬がいいと言い、冬には、やはり夏がいいと言うような自我中心的なものであるから、幸せを求めつつ苦悩を生むことに成るのである。
 だが、仏性の心が働かないのでは、真理に無関心で、物・カネ・愛欲ばかりに突進するのもやむをえまい。この世には「夏の虫」も居る。善悪ではない。
 
即ち、「みんな違って、みんな同じ」なのである。人間がパチンコの玉に成るわけにはいくまい。否、パチンコの玉だって、境遇は異なるであろう。
つまり、「みんなちがって、みんないい」のである。
如何せん、不可思議ながらも、見たままがこの世の現実・事実としての真実・真理・自然なのである。
この、真実・真理・自然の法を正しく知らないことには、物・カネに恵まれて幸せに成ったつもりの者も、また恵まれ無くて不幸を感じる者も、真に救われることは無い。
 ここに、物・カネ・愛等々では無く、心を真実・真理・自然の法に沿わせて、「我が国は…」では無く、せめて人類だけでも「絶対自由平等」の共通基盤に立つことの必要なわけがある。
 
ISに武力ではなく、あるいは難民に排除ではなく、対話と融和と施しで対応する道は無いのであろうかと思うが、「物・カネの戦いで勝つのが幸せに決まっている」、「人生は生存競争だ」と言うことを信条とする生き物か餓鬼的な常識人が、「物・カネの豊かさは人間を迷妄・苦悩させ、地獄を生む。物・カネ等々の生死を捨て超えて生きよ」と言う仏の教えの真理に気づくのは難しい。
 
事件が起きるたびに、「野蛮だ、愚劣だ。あっては成らないことがまた起きた。人命優先に対処せよ」などと言って見せるだけで済ませ、その舌下、自分自身の地位と名声のためにせっせと「ムミョウノミクス」を画策し、テロ・戦争の誘発に奔走している首相や大統領が選ばれていては、人類の夜明けは不可能である。
 先進国とか、経済大国とか、軍事大国とかの言葉は、私には「無明大国」と言う響きしかない。
 しかし、何度も書くように、「人生は生存競争だ。戦いだ」を信条とする生き物人間や餓鬼的人間の無知・無明・愚痴な心による自由・民主主義の下では、所詮「餓鬼大将」の指導者しか得られない。
 前にも、大戦後、先進国と称される国々はいずこも、この世・人間・自分知らずの「ぼんぼん」が社会での指導的立場に立つようになって人類世界は実に頼り無いと書いたが、英国のEU離脱にまつわる指導者層の狼狽ぶりを見ていると、チャーチルやサッチャーの頃までとは大違いであることが、素人でもわかる。今の指導者は、どこの国も、小中学生の「孫」レベルであろう。
 が、これも「人間世界の何でも無さ」のうちである。
  
 であれば一層のこと、真人間であろうとする心あるものは、真実・真理・自然の法に目覚め、自主、独立、自尊の憲法と国土を自らの心に打ち建てる必要があるのである。
 それはミサイルや核、あるいは潜水艦等での戦争ごっこで、勝ったの負けたのと言うようなしょうも無いことでは無く、太陽のような普遍的真理の心の存在と成ることなのである。
 仏教とは、そう言う教えなのである。そして、その真理の仏の命に生きることを「往生」と言うのである。それを生きているうちに始めるのが仏道である。
 
 その道・門は、見た通り、常に開け放たれている。あなたと太陽の間を遮るものは何一つない。あなたの心一つで直行出来るのである。
 と言っても、真理の道はスペースシャトルでは行けない。太陽(真理としての)とあなたの心を結びつける「超越しつつ内在する仏性の心」が働いていないことには、どうにも成らない。
 が、そんな心があなたの心の中にもありはしまいか。
 犯罪、テロ、戦争…、莫大な予算をかけての殺し合いにしのぎを削る人間世界…、どこかおかしいなぁー、一体、人間は何のために何をやってんだろうと言う心があれば、それは仏性かもしれない。その心を枯らさないように育てて欲しいと思う。
 そのためになら、何を犠牲にしても損は無い!
 そして救われると、嫌でも「自利利他」の生き方と成る。
 
  真実・真理・自然に向かう芽が社会的な力と成ることのない自我中心的我執煩悩合戦の自由民主主義は、アフリカの動物たちのルールにも及ばない迷妄・苦悩・地獄道なのである。
 ただ今、参議院選の最中である。事前予想では、改憲のための三分の二にきわどいか、これを超えそうだと言う。
 やはりそうか、の感であるが、とにかく、今回は、護憲派の党・人に投票しようと思う。
 相場のトレンドで言えば、今は下降トレンドと言うことであろう。十年か二十年かしてまた戦争の地獄を見てどん底を打ち、「やはり平和が一番だった」と言うことで、上昇トレンドに向かうと言うことに成るのであろうか。
 人間世界は、幸も不幸も、景気も不景気も、戦争か平和かも、いわゆる因縁・縁起と言う真理による「相場」なのである。株や為替や天候と同じで、思うようにはいかない。
 やはり、「この世、人間、人生など何でも無い。あるがまま、成り行きまかせですべてよし」と捨て超えるのが一番である。
 
 
 * どうして自分はこうも同じことばかり書くのだろかと考えてみたら、世界中でみんなが同じような愚を繰り返しているからだと気づいた。
 そう言えば、仏教は、千年も、二千年も同じことを説きつつけて来たのである。迷妄・苦悩・地獄道で苦しんでいる衆生が居からだと言う。
 じゃ、自分も同じことばかり書いてもいいのか。やっぱり「すべてよしだ」と。(^0^)
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