いつも読んでくれてありがとうございます。

ひとつ前のブログ、「 熊本を応援したいぞ チャリティ 」の記事では

多くの方がシェアしてくださり、ありがとうございました。

おかげさまで満席になりました(*^_^*)

今日、熊本の友人とやり取りをしていて

あらためて気づくことが沢山ありました。

それは、被災したことと被害者の意識でいることは関係無いということ。

インドに行くと、片腕が無い人が沢山います。

そして、腕が無いことを一生懸命アピールして

お金や食べ物をもらおう!もらおう!としています。

先天的に腕が無い方、事故や怪我で腕を失ってしまった方もいますが

インドの方に聞くと

生まれた時には、五体満足だったのに

わざと腕を切り落とすことで、ご飯やお金をもらいやすくする。

そんな方たちも少なくないそうです。

そして、これはその方たちだけの問題ではなく

腕が無い人を可哀想だと

安易に食べ物やお金をあげる側の問題も大きいと思います。

表現として適切かどうか分からないけど

「 腕が無いとお金や食べ物を簡単にもらえる! 」

そういった成功体験が

結果的に

腕を切り落としてしまう人を増やしている。

そんな現実があるのだと思います。

そして、これは病人と看病する人の関係

被害者と支援者の関係にも共通する部分があると思います。

病気の人を、かわいそうな人・不幸な人だと決めつけ

一生懸命看病すればするほど

病気でいることにメリットを感じて、病人から抜け出せなくなっていく。

支援という行為・行動は尊いものだと思うけれど

被災した人を

かわいそうな人・不幸な人だと決めつけ

支援すればするほど

被災した人たちは「被災者」ではなく「被害者」へと変わっていく。

「 可哀想!」

「 何とかしてあげたい!」

「 助けてあげたい!」

その想いが強ければ強いほど

「被災者」を「被害者」へと縛りつけ

被災した人たちの自立する力を奪い

物事をますます深刻化させていく。

もちろん、いまはまだ地震の傷跡も深く

心がついてこないこと

体がついてこないことも

たくさんたくさんあるのだと思います。

僕自身も

被災していないから分からないことも沢山あるし

同じ立場だったら、失ったもの・無くなったものばかりに意識を向け

「なんで自分がこんな目に遭うんだろう!」と

被害者意識の中で暮らしているかもしれません。

だけれども

被災にあったことは自分の力だけではどうにも出来ないけれど

被災したけれど、日々を生きていくのか?

それとも

被害者として日々を生きていくのか?

は、自分自身で決めることが出来ます。

支援する人たちも

被災した人たちも

想いは、一日もはやい復興であることは間違いないと思います。

事態をますます深刻にしない為にも

それぞれの立場の人が

裏側にある「 想い 」に意識を向けてみるのも大切なことかもしれません。

「心配すること」 と 「しあわせを願う 」 ことは

どちらも相手を想う気持ちであるけれど

想念を通じて、引き起こされる現象は

真逆のことが起こります。

みなさまが自分の内側にある神性とつながりますように・・・

豊かさがますます広がりますように・・・

そして

被災された方たちに嫌な想いをさせてしまったらごめんなさい。


ベジップルズさんの弊立神宮の記事からお借りしました)

日本中、色々なところに旅行に行ったけれど熊本が大好きです。

大好きな熊本の一日もはやい復興を願っています。

僕は僕に出来ることで応援させていただきます。

健康コンサルタント 猿田 友