【フィクション】


12月の午後10時。街はたくさんの人がうかれている。
私もそんな大勢の中に埋もれている一人だ。

私が手を繋いだ人の一歩は私より大きく、私は彼に引っ張られる感じになりたくなくて、少し早足になる。そんな自分が可愛い。


数か月前、私はその人に初めて会った。
彼は私が働いていた会社の取引先の社員で、商品サンプルを届けに行ったとき、受け取ってくれた。名刺で「澤井」という名前だと知る。彼の顔は155cmの私がずいぶん見上げないといけないぐらいの所にあった。目つきが鋭いというのが第一印象。細いけど折れてしまいそうではなく、髪をきっちりセットしている。
アパレル関係の会社で、周囲の人はラフな格好をしている中、スーツを着ていて、高価そうな腕時計が左腕に見える。
のちにジーンズ姿やジャージ姿の彼も会社で見かけるようになるのだが、少なくともその日の彼は、フロアで異質だった。私は彼の整った顔を正面から眺められなかった。怖かったこともあるが、見惚れてしまうのを避けたかったのだ。

男女が付き合い出すには、運命の赤い糸を操る神様、もしくはハートの矢を持ったキューピットの演出があるように思う。
それまで私はパシリ程度の仕事しかしないアルバイトだった。でも、そのサンプルを持って行って帰社したその日に、社員になってはどうかと持ちかけられた。社員の立場は魅力的で、私はその場で承諾した。
私が持って行ったサンプルは、彼の会社で製品化してもらえることになった。私は社員になってもパシリだったが、徐々に自分で判断で仕事を進められるようになっていった。
仕入担当のインテリヤクザみたいなその人は、たいそうせっかちだけど、概ね私に優しかった。

ただ、私には交際してる人がいた。遠距離恋愛だけどいつか結婚するつもりだった。
25歳を過ぎた私は、いくつかの恋愛経験から、互いが提供する愛情、お金、時間のバランスがとれている今の交際相手こそが、結婚相手にふさわしいのだと迷いがない。

また、際立った取り柄のない私を澤井さんが興味持つはずがないのだ。時々私の見てくれを褒める人がいるが、そんなのは「今日も天気がいいね」と同じ意味合いでしかないだろう。

ある晩のこと。私は彼の会社で打ち合わせを終え、そのまま直帰することにした。私がドアの所まで行った時、彼は晩ご飯を誘った。今思えば、澤井さんにとって私は小洒落たレストランの「本日のオススメ」みたいなものだったのだと思う。
彼は地下鉄で3駅も行ったところの、無国籍料理のお店に連れていってくれた。メキシコの太鼓やタイの笛やアフリカのチンパンジーの鳴き声や、そんなような音が流れる店内は、さほどうるさくなくて、薄いセピア色の布でで間仕切りされた空間で私たちは食事した。どれも美味しかった。
そして彼は私に言う。「岸田さんが来ると、うちの会社のやつら君ばかり見てるんだ。特に一番奥の体格いいやついるだろ? あいつが岸田さんを気に入っちゃって。先越されるんじゃないかと、ちょっと心配してた」と。
私は澤井さんの褒め言葉に有頂天にならないように気を付けた。

話の中で「澤井さんはモテるでしょ? 彼女何人いるんですか?」私は聞いた。
彼は、あははと笑って、今はいないよ、3人の人と同時に付き合ってたことあったけど、やめたね。当分めんどくさいのはごめんだ。もう32歳だしと言った。

私はちょうどビールのジョッキを口から離した時で、急にそれを重たく感じた。「メンドクサイ」という6文字は私という女全体を拒否しているというより、私個人に対してだろうと思えた。でも、すぐに気楽な気分になり、ビールを3cmほど飲んだ。

色んなおしゃべりの途中で、私には付き合ってる人がいるということも言った。その時の澤井さんの表情に落胆が見られたらよかったのに、大げさに驚いただけ。そんなもんなんだなって、また軽い気持ちになる。

彼は仕事のこと、趣味でフットサルをやっていること、家族のことなど、どんなこともベランダに洗濯物を干す様に語ってくれた。
「澤井さんってインテリヤクザみたいですよね」。私は第一印象をそのまま言ってみた。
「うまいこと言うね。時々、オレを怖がる人がいるが、そういうことなんだ」と前置きして、彼は数年前のエピソードを語った。「自分の外見は父親譲りであること、父親が女にだらしなくて、ヤクザの女に手を出し、事務所まで呼びだれたことがある。その時自分も一緒に行った。25歳の時に本物のヤクザを見たが、自分とは全く違う」と。

私はお酒に強い方だったが、その日はあまり飲まなかった。きっと澤井さんに可愛い女だと思って欲しかった。澤井さんはたくさん飲んだ。奥二重の目の光がますますきつくなったようだが、全く態度は乱れない。

お店のお勘定を澤井さんが払ってくれている間、私はドアの外で待った。
「ごちそう様」と出てきた彼に言った時、彼がふいに私と手を繋いで歩き始めた。
12月だね。寒いね。寒い時はこうやって歩くのが一番さと、彼は少し早足で進む。私は幸せだったが、でもどこかで自分が見劣りしているんじゃないかと心配でもあった。

「すれ違う人が君を見てるよ」と彼が言う。

「まさか」

「俺が向こうから歩いて来る人間だったら、すれ違う瞬間まで岸田さんを見てるさ。そんな視線感じない?」

「感じませんよー」

「俺の感覚は男として普通だから、みんなもきっとそうさ」

「そんな……」

「君は秘書であり、でも銀座のクラブのママだ」

「え、どういうと?」

「有能な秘書で…、まだ今は分からないけど…、ふたりきりになったらオトコの望むことは何だってするだろ?」

私は急に酔いが回ったみたいで、澤井さんの言ったことの意味を分析しかねた。彼がさらに言葉を続ける。

「あはは。で、俺はそんな子と手を繋いでる」

そこで澤井さんは間合いをとったように思う。その時間を長く感じたのは、あとの台詞にが恐ろしく動揺したせいかもしれない。


「おれ、お店にいるときからタチっぱなしなんだ」

澤井さんは少し屈んで私の耳元で小さ目な声で言った。

全てが計算されていたのか、偶然だったのか、道を走っていたタクシーを澤井さんが停めた。促されて乗って、澤井さんも私の隣に乗ってきた。
運転手にいくつかの指示を出して、タクシーはシンデレラ城までスムーズに走った。

ただし、私は車の中で顔を上げることが一度もなかった。シンデレラ城だと思い込みたかっただけで、行先は確実にラブホテルだと認識していた。

澤井さんは私を興奮させた。今までどれほど遊んだら、こんなに上手くなれるんだなろうと推測したのは、最初の方だけで、やがては自分の快楽だけを求めていった。

私はその後も澤井さんの心を手に入れようとは思わなかった。それは彼によってコントロールされていただけかもしれないし、反面、自分の将来を彼によってダメにしたくはないという、狡さもあったのだと思う。
誰にも知られずに私たちは多くの時を共有した。

私と澤井さんはおおよそ2年間続いた。
私が飽きた頃、彼は転勤になって姿を消した。楽しかったことだけが思い出として残った。私は遠距離恋愛している男性と結婚するつもりだ。少し遊んだだけのことだ。

人は外見じゃなく心だという考えは一面的を射ているが、去った後に残る記憶の大部分が、彼の顔や胸板や太腿の筋肉だということは事実だ。
一方、彼がもし私を思い出してくれることがあったら、私の尖がった鼻や、首の付け根のくぼみや、膝小僧でいいと思っている。

冬は毎年来る。私の左手の指と指の間は、無国籍料理のお店の前を通る時、少し暖かくなる。