チェスの戦い | ぽっぽのブログ

ぽっぽのブログ

綴ることなく綴りゆき、やがて想う果て、彼方へ消えゆく定めの声か


初めて手にしたチェスセットはプラスチックの安価な物。


添付画像と同じ物ですが、このタイプは色んな販売業者が取り扱ってるんです。


販売業者は違うけど、大元の製造は全部同じところなんじゃないかな。だから製品の物自体は恐らくみんな同じ。


でも値段は違うんです。


中にはボッタクリ価格で売ってるところも!ややや!


私はそのタイプのSサイズを注文したんですけど、届いてみたら思ってた以上に小さかったです。


でも本の棋譜を見ながら駒を並べて見るには丁度いいサイズでありました。小さい方が容易に全体を見渡せるので、チェス盤全体の把握に慣れてゆくには丁度いいと思います。マグネットで駒が倒れにくくなってるのも便利です。


25cm×25cmの小さいチェスボードですが、一つ一つの駒のディテールは中々良いです。


この値段にしたら良く出来てるなぁと。特にクイーンの冠が可愛いです。ちゃんと細かくギザギザが立体的に彫り込まれてて。


入門用としては充分でした。ただボードのヒンジ部分もプラスチックなので、いずれは折り畳みの負荷でパキンと割れる時が来るでしょう。


やっぱり物理的にちゃんとチェスセットがあるのは良いですね。


並べて見て、「わぁ♪」となりました。


先の記事で頂いたコメントにもありましたが、チェスの源流を辿るとインドに行きつくんです。


インドのチャトランガというボードゲームが後にチェスへと変化した、というのが歴史的な事実とされています。


私が初めてチェスセットを並べて見た時、バガヴァッド・ギーターを思い出しました。


「これはまさにギーターの序章の光景そのものだ」と感じたんです。


ギーターの始まりはこれから戦おうとする両軍が互いに向き合って陣取り、その両軍の中央にアルジュナとクリシュナが立つところから話しが始まります。そこでアルジュナがクリシュナに助言を求め、クリシュナが応えーーというのがギーターの物語の冒頭部分。


というかアルジュナとクリシュナの対話自体はずっとその戦場の中央でなされていたのだと思います。途中、アルジュナはクリシュナの手引きでアストラルトリップをしてこの世ではない場所へ行きますが(笑)。


チェスの駒がピシッと全て並べられた光景はまさにそのギーターの物語を彷彿とさせるものでした。


そしてチェス自体がそもそもインドから生まれたもの。


何か縁を感じました。なんで自分が実際にチェスを始めたのかはよくわかりませんが、インドとギーターという点においてなんとなく自分で繋がるところがあり、納得するところがありましたね。


そしてチェスというものに触れて、改めて「戦い」というものについて考えるような部分もありました。


残念ながら、今のユガ(時節)においては生きることは戦いの側面を多く孕んでいます。


下手すると、ただ人と対面することでさえそこには目には見えない様々な戦いが繰り広げられているとも言えます。


それは心理的な駆け引きであったり、笑顔の裏に隠された悪しき想いであったり、様々ですが人間は本来なくてもいいような争いを自ら創造し、互いにその働きを維持し合い、実際に争いに明け暮れています。


まだ宇宙が生まれたばかりの頃、ユガのサイクルがクリタユガ(純粋性の時代)にあった頃、その頃にはまだ世界はエデンと呼ばれる次元にあったことでしょう。


しかし今はそのような時節ではありません。


人々は自分の欲望のために互いにぶつかり合い、互いに蔑み合い、それぞれが思い描く虚栄の理想のために戦います。それが互いに反駁し合っている内容なので、彼らは互いにぶつかり合わざるをえません。


その戦場が今のこの世界・人の世と言えるでしょう。


もし欲望についての理解やエゴについての理解が育まれてゆけば、その闘争の世界の表と裏がうっすらと見えてくることでしょう。他でもない自分自身の心の中身を通して。


チェスもまた戦いです。白と黒の双方が互いのキングに白旗を上げさせようとして戦うのです。


そこには駆け引きがあり、勝利と敗北を分ける縁の働きと作用があります。


しかしチェスの面白いところは、あくまでキングをチェックメイトにすることが目的のところにあります。


つまりゲームのルール上、厳密にはキングは落とせないのです。他の駒は落とせます。駒で駒を取ることによって盤面上から排除できます。


キングに関していうと、あくまでチェックメイトがゴールです。またキングが追い詰められて自殺を強いられる状況(自分から敵駒の攻撃範囲へ移動するしかない場合など)の局面になると強制的にステイルメイト(引き分け)になります。


将棋では勝ちに判定されるところでもチェスだとドローになってしまうのです。面白いことだと思います。


あくまで敵のキングに剣をつきたてて降参させることが目的であって、キングを殺めたり、またはキングが自殺せざるを得ない状況に追い詰めることは目的ではないということです。そこら辺は騎士道精神じゃないですけど、無益な殺戮のための戦いではない、ということなのかもしれません。


ボビー・フィッシャーは「(チェスで圧勝して)相手のエゴをへし折るのが好きだ」という旨を言ってましたが(笑)。


接待プレイのための余地としてステイルメイトのルールが確立して行ったとも言われてるみたいです。確かに立場的に勝っちゃうのはちょっとマズイななんて時にわざとステイルメイトに誘導して相手の面子を保つなんてことができると社交的に色々と波風立たずに良い場合もあるのかもしれませんね。


ギーターも戦争・戦場が舞台となっていますが、当時のインドの戦争というのは競技的なルールがちゃんとあって無闇やたらに殺し合うという現代の戦争とは少し違っていたらしいです。


詳しいことは忘れましたが、戦意を失った者を追撃して殺してはならないとか武器が手から落ちてしまった者はそれ以上攻撃してはならない=殺してはならないとか、そんな感じだったと思います。競技的な戦い方だったようです。


もちろん死者も沢山出たのでしょうけど、近代的な戦争の泥沼地獄とは異なり、まだ人間性を失わずにすむ余地がちゃんと残してあったのでしょう。


なのでそこら辺は先に述べたチェスのチェックメイトと似ているのかもしれません。ただの殺戮が目的ではない、ということですね。


それは本来、現代の戦争も同じではあると思います。私達下っ端の一般人や一般兵なんてできれば殺し合いの戦争なんかしたくないはずですし、言ってしまえば偉い人同士が何組かでボクシングとかで戦って決着つけてもいいじゃんと思います。ジャンケンでもいいのではないでしょうか。


しかしそんな簡単な戦いの勝敗では譲れないものがあり、それに互いに固執し合って、最後の手段として実際に戦争が起こるのでしょう。


戦いとは何なのでしょうかね?


私はいたるところに戦いを見ます。そこにはあらゆる種類の死が普遍的に蔓延しています。その恐れによって人間が駆り立てられ、それぞれが勝手に何かと対立して、勝手にそれぞれ戦っているように見えます。あらゆる状況やあらゆる他者をお互いに勝手に巻き込み合いながら。


ありもしない勝敗や、ありもしない優劣、幻でしかない栄光のためや、永遠に反復し続けるだけにすぎない復讐のためなど。


私は逃げる勇気とそのテクニックに関しては自分でいうのもなんですが、そこそこ手練れていると思います。


しかし時には戦わざるを得ない時もあります。ギーターのアルジュナのように。例え不本意であっても、己の義務のために戦わなければならない時はあります。


意義のある戦いは、戦う意義があり、戦うべきであるとも私は思います。それは逃げるのと同じように大切なことでしょう。


チェスを学ぶことによって私はその戦い方を学んでいるのかもしれません。今までとは少し違った戦い方を。


人間のエゴというものはずる賢いものですから、その相手が他者のエゴであれ自分自身のエゴであれ、こちらも賢く対応して戦わなければなりません。


最も大切なものである自らの自己(真我、アートマン)を守る時。その時、その戦いにおいてチェスの経験が役に立つことでしょう。


チェスにおける戦いは賢くやらなければ勝てない戦いです。駒と駒の関わり合い、その縁の法を理解し、その理に基づいて戦わなければならないのです。


そしてそれはこの現実の実生活においても全く同じだと私は思うのです。


なのでチェスのノウハウはそのまま私達の日常においても活かせる場が少なくないのではないかなと、そんな風に感じます。