ベルセルク考察 ガッツの誤解3 三つのグリフィス | ぽっぽのブログ

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綴ることなく綴りゆき、やがて想う果て、彼方へ消えゆく定めの声か

元々のグリフィス、転生後のフェムト、受肉後のグリフィス。


それぞれが何を象徴しているのか。


思うに、転生前のグリフィスは欲望の光の部分、フェムトは欲望の闇の部分。光と闇が互いに相容れないのと同様に、その二つは全く異なるものとして描写されている。


容姿も、性格も。コインの表裏のように重なることがない。しかしコインの表裏のように本質的には一つでもある。


その一つ。一元性。それが受肉後のグリフィスかと。表裏、光と闇、そのどちらでもあり、どちらにも限定はされないもの。その双方を一つにしたもの。


一なるもの。この一なるものこそがまことのもの。空における昼の光と夜の闇は表面上は全く異なるもの。しかしどちらも一なる空。その二つは一なる空の両面性。


互いに相容れぬ性質にあるにもかかわらず、空の元ではもともと一つ。昼の光、夜の闇、その異なる二つの性質を一つに包括するものが空。


その空が受肉後のグリフィスかなと思うんですね。だから受肉後のグリフィスは、転生前のグリフィスと同じ姿でありつつも、フェムトとしての姿も持っている。ガニシュカ大帝のシーンでフェムトの姿を見せていますから。


しかしそのフェムトはもうキャスカを犯したフェムトではない。黒い剣士ガッツを取るに足らない存在だと見下したフェムトではない。


受肉後のグリフィスとしてのフェムト。完全なる魔の存在だけではないが故にガッツが知っているあのフェムトとは違う。


何故違うのか?何故完全なる魔の存在とも異なるのか?というと、受肉後のグリフィスの身体にはガッツとキャスカの子供が溶け合っているから。


そしてその子供は度々、まことの光を纏っている霊的描写がある。なので満月の夜に現れるあの子供は魂の波動が魔ではなく真、まことにある。


そのまこと、魔の波動とは異なる光の波動もグリフィスの身体には宿っているということ。


なので受肉後のグリフィスが見せたあのフェムトは、霊界を思念体として漂っていた頃のフェムトとは似て非なるもの。


「完全なる魔の者としてのフェムト」は、伯爵のシーンでもわかるように使徒のことを虫ケラ程度にしか思っていない。


だから伯爵が生きようが死のうが関心もないような様子であった。またフェムト転生直後には髑髏の騎士を攻撃した時に多数の使徒を巻き添えで殺しているが、全く意に介していなかった。


しかし受肉後のグリフィスとしてのフェムトは、「世界、生、命、それは無明」といって悲嘆の闇に沈み込むガニシュカ大帝に光を示す。ある種の救いのようななにかを示しているのだ。(そしてフェムトの背後の光の描写が、真名を冠する人魚達の光や、謎の子供の光と同じような描かれ方をしている)


姿こそフェムトではあれど、そこにはある種の慈悲が感じられる。ガニシュカは光に包まれ、涙をこぼす。確かにフェムトはあの時、更なる幽界への扉としてガニシュカを利用してはいたが、それはそれとして、ガニシュカにある種の癒しや救いといえる何かを与えていたのも描写から見て間違いはない。


余談だが、ガニシュカは無明を悟った結果としてフェムトの背後の光を見たとも言えるかなと思う。ある意味、ガニシュカは無明を悟り、フェムトの背後の光に包まれることよって「成仏」したのかなーなんて。現実におけるスピリチュアリティの点でも、ニサルガダッタ・マハラジ が「暗闇の中で(解脱への)最後の一歩が踏まれる」と語っていたので。


そして受肉後のグリフィスは使徒に対しても友好的に接している。かつてのグリフィスは鷹の団の部下を大切にしていた。自分に並ぶ友としては見ていなかったのだろうが、それは別としてグリフィスは部下をとても大切にしていた。


キャスカの回想でグリフィスが、死んでいった少年を弔う印象的なエピソードがあったが、グリフィスは恐らく全ての部下に対して概ねあのような感慨を抱いていたと思われる。


それにグリフィスがフェムトに転生した動機の一つが「今まで自分の夢のために散っていった数多の部下達のため」でもある。彼らの死を無駄にしないように。


でももし、(散っていった)あいつらのために死者達のためにオレに何かしてやれることがあるとしたら、それは勝つこと。あいつらが命を懸けてまでしがみついたオレの夢を為し遂げるために勝ち続けることだ」


このセリフをグリフィスが語った時、グリフィスは「死んでいった者達に責任は感じていない」と言っている。これは確かに本音なのだろう。それは彼ら自身が選んだ戦いの結果であるから。そして当人が言ったように、グリフィス自身もまたそれと同じであるから。


夢のためには非情になれるグリフィスであったから、それは本音ではあれど、それと同時に夢とは関係のないグリフィスは本来、無邪気で心優しい人でもある。だからその葛藤が、あのシーンにおいてグリフィスが自分の手で腕を掻きむしり出血する演出で表現されていたのだと思う。


グリフィスは確かに夢のためには時に非情にあった。そして夢のために何より強くあった。しかしそれはあくまでも夢の実現のためにそうしていたことでしかなく、キャスカが語った通りグリフィスとて神ではない。


だから本当はグリフィスは無理をしてもいた。グリフィスは本来の自分の姿とは違う姿を、夢という鎧を心に着せることによって纏っていたのだ。


本来は子供のように無邪気で純粋な面も持っているグリフィス。ジュドーもガッツもグリフィスの中に子供のような無邪気な面があることを感じている。そしてグリフィスの夢のために死んでいった少年のエピソードにあるように、グリフィスは基本的には優しい人間だった。だからこそ死んでいった者たちのことを裏切れなかったのだろう。


そしてそんなグリフィスはフェムトに転生したことにより一度は消え去る。あれ(フェムト)は間違いなく、あの鷹の団を率いたグリフィスではなかった。


しかしフェムトが受肉した際に再びかつてのグリフィスのエッセンスが戻ってきた。それは見た目だけではなく、人柄的にも。その時点で既に受肉後のグリフィスはフェムトともまた異なる者となっていた。


だからこそ使徒達に対してもフェムトのように見下すのではなく、基本的には鷹の団の大切な部下として扱っている。


その意味では、あの受肉による現世への降臨は「二度目の転生」だったとも言えるのではないだろうか。


そう考えると、ガッツはやはり受肉後のグリフィスという存在を「あのフェムト」と完全に混同していて、その点においてガッツは受肉後のグリフィスを誤解している、と個人的には思うんですね。


一方、ファルコニアの人々は「あのフェムト」のことなど全く知らないわけですから、受肉後の神々しいグリフィスをそのまま受け入れられる。


使徒達はそもそも魔界の者であり、魔のイデアおよびゴットハンドの配下なのでグリフィスについて疑念などはない。


ファルコニアの人々は欲望の光の面、使徒達は欲望の闇の面、そして受肉後のグリフィスはその双方が求めし者。


グリフィスは渇望の福王であるから、欲望の全体性そのものを体現する存在。「罪深き黒き羊達(使徒達)の主にして、盲目の白き羊達(ファルコニアの人々)の王」、それが闇の鷹。


彼らは双方、本来はまことの光とは異なる側の者達。欲望の光は闇を嫌い、欲望の闇は光を憎む。双方共に「自分は相手とは違う」と言って相容れぬもの。ダイバは使徒を「人の世の外道、自我と欲望に極まりし者、貶み、貶まれ、嘲り、嘲られ、憎み、憎まれるものども」と形容している。


しかしそれはその対極である欲望の光があってこそのもの。その二つは互いに正反対ではあれど、互いの立場を確立するために対極との対比を必ず必要とする。正反対のものと比べることでしか、明確にその姿が浮き彫りにならないから。その意味合いにおいて、双方は本質的に一つなのだ。


しかし欲望に視野を奪われているが故にその一体性が見出せない。だから互いに反発し合い、争う。ダイバは使徒のことを「貶み、貶まれ、嘲り、嘲られ、憎み、憎まれるものども」と言った。そこには闇(使徒)を貶み、嘲り、憎む者の存在が示唆されている。そうでなければダイバは使徒を「貶まれ、嘲られ、憎まれるものども」とは言わなかっただろう。


ではどのような者達が闇・使徒を貶み、嘲り、憎むのか?それが欲望の光側に属する者達だ。これは現実の私達においても同じ。善人を自称する人ほどこの世の悪を許すことができない。悪に対して憎悪に染まる人々。それでは悪と同じだ。同族嫌悪でしかない。そういったエゴの矛盾はこのブログでも度々、記してきた。


しかしまことの善はキリストが語った通り「悪に手向かわない者」にある。


そしてベルセルクにおける妖精や人魚たちはその欲望の光と闇の相互的な反発、闘争、断罪には関与していない者達だ。まことの光の側であるから。魂の波動が欲望(魔)にあるのではないから。


バーキラカの若などはグリフィスに対して「人智が及ばぬものに委ねて良いのか」と疑念を持っている。そして妖精や人魚達は恐らくほとんど我関せずである。そして当然、ガッツ一行もまたファルコニア側の者達と異なる。リッケルトは因果によってファルコニアを離れた。


それは恐らく彼らが、渇望に惹かれていないからなのだと思う。妖精たちは何かを渇望せずとも自ずと満ちている様子であるし、恐らく同じ魂の波動にある人魚達も同様なのだろう。


人間達でいうなら安易な幸福への欲求がない人々とも言えると思う。セルピコは無理にファルネーゼに同行する必要は無かったと思うが、セルピコにとってはファルネーゼが自分以上に大切だ。


だからセルピコは黙ってファルネーゼについて行った。セルピコはファルネーゼのために自分を犠牲にできる。つまりセルピコは自分のエゴのためではなく、誰かのために生きることができる。その意味でセルピコは魔の波動とは異なるのだろう。


光の波動にあったと思われる花の妖精チッチは自分を犠牲にしてガッツを助けた、人魚のイスマもイシドロが波にさらわれて海に落ちた時に躊躇せず助けに飛び込んでいる。そういった精神が「自分だけが大切」という魔とは異なる波動なのではないだろうか。丁度、ルカ姉とニーナの対比もそのようなものであった。


ファルネーゼは渇望していた理想の自分と理想の救いが崩れ去って以降は、ガッツの道についてゆき、安易な希望ではない、実在の希望、そして本当の自分、真実を探し始めた。その探求心こそがシールケに弟子入りする因果・因縁になっていたのだろう。真実を探すと必ず内へ向かうことになるからだ。


断罪の塔の怪異においてガッツが「自分のケツに火がついてる時に、拝んでるだけだろこいつら」と言ったように、ファルネーゼにとってうわべだけの信仰はなんの助けにも救いにもならなかった。


そしてうわべだけ厳しく飾り立てた自分を繕ってみても、結局本当の強さは得られなかった。そしてファルネーゼはシールケから霊的な世界を学ぶことによって、「自分がいかに小さな存在か、そして自分がいかに大きなものの一部か」を理解し始める。ファルネーゼは真実を外ではなく、自分の内に見出し始めた。なので外側の対象に真実や救いを渇望していない。


ガッツに対してもあくまで「導き」として尊敬している。そして見ての通り恐らくは恋情もあるのだろう。その恋情は肉欲で魔性ではないのか?とも思えるかもしれない。確かにファルネーゼはキャスカとガッツとの触れ合いに度々寂しそうな表情を見せているのだが、キャスカに嫉妬はしていない。


そればかりか、目が覚めるまでのキャスカに対しては「キャスカがいるからこそ自分が強くあれる」というように何かしらの感謝にも似た感慨を持っている。そしてキャスカを目覚めさせる夢の探索の時には、キャスカに対して母性愛のような慈しみさえ向けている。


確かにファルネーゼはガッツに恋情を持っているだろうが、ファルネーゼはガッツを愛しているからこそ自分の幸せよりガッツの幸せを望み、そのガッツの幸せであるキャスカを愛し、二人の幸せを素直に願える心にあると思う。(少なくとも原作の中断した部分までにおいては)


旅を通してファルネーゼもまた、「自分だけの幸福」ではなく、自分のみならず他者のことも思いやれる人間に成長したのだ。


イスマは人魚とのハーフなので、先のイシドロを助けたシーンもそうだが、生まれついて普通の人間より心が純粋であり、真の波動にあるのだろう。


イシドロはガッツに憧れている。そのガッツ自身が安易な救いを求めず、自分の力で自分の運命に対峙している。なのでそんなガッツに付き従うイシドロもまた安易な救いや安易な希望は渇望していない。


イシドロは漠然と「スゲー剣士になりたい」というような夢があるが、それもグリフィスのような渇望とはニュアンスが異なる。真剣に剣の稽古をしたりしてはいるが、それと同時にノリの軽い冗談交じりな部分もあるので深刻(魔の波動)にはならないのだろう。


そしてガッツが何かしら妖精と縁があるのと似ているせいか、パックは大抵イシドロに纏わりついている。パックとしてもイシドロと息が合うのだろう。その意味でもイシドロはそちら側なのだと思うのだ。


シールケは言うまでもなく霊的な知識と理解が深いのでうわべだけの欲望の光に惑わされることがない。たまたまガッツ一行に付き合うことになったロデリックなどは、よくわからないが縁によるものとしか言いようがないのだろう。


そのような理由で、彼らはファルコニアと縁が交わらない運命なのだと思う。(当然、物語が順調に進んでいたら、ガッツ一行がファルコニアに入る展開もありえただろうが)


そしてファルコニアはそれ自体が欲望・渇望の象徴的な具現なのだと思う。その光(一般人)と闇(使徒)それが一つとなり始めたことが、霊的次元と物質的次元が重なり始めたこととシンクロしているのだと思われる。


それが完全に調和して共鳴する時、グリフィスの真の目的が動き始めるのかもしれない。


そしてその一環としてガッツがグリフィスへの誤解に気づき、自分(グリフィス)を許せるように成長していったのかもしれない。


ネットで見たソース不明の情報なのだが、「ボイドにはある計画があって、ガッツとグリフィスが一時的に共闘することになる」という話を目にしたことがある。ベルセルクのスレだったろうか。


作者自身のインタビューではなかったと思う。しかしそれをネットに書いていた人は、その情報が自分の勝手な考察予測ではなく、作者の発言かもしくはそれに準じたような情報源であるようなことを言っていた。


確かにゴッドハンド、とりわけボイドがあのまま、特に出番もなく終わることは考えにくい。


物語が進んだら必ず再び何かしらの形でガッツもしくは髑髏の騎士はゴッドハンドと対峙していたことだろう。


ここら辺も気になるところであったな〜。


個人的にはスランがガッツに何かしら手助けしたりしたら面白いなーとか考えていたものだ。スランは多分あれ本気でガッツのことを気に入ってたと思うから。


ガッツが死んでしまったらスランとしてもつまらない。スランはガッツが苦痛の中でのたうちまわる様を見ていたい。歪な理由ではあれど、スランはそのガッツの姿に心から惚れ込んでいたのだと思う。


そのガッツへの想いが、何かの形でゴッドハンドらしからぬ温情になったらその意外性が物語としては面白そう。まさかゴッドハンドのお前がそこでガッツに手助けしちゃうの!?ボイドに怒られない!?ありなの!?みたいな。ゴッドハンドとはいえ結局は「自分の望むがままを行う」だけですからね。


後はゾッドが死んで、生前の姿に戻ったら女性だったーーみたいな妄想もしたことあるな。女の剣士だったが故に、身体的な生まれの差で男には敵わない絶望がベヘリットを発動させたーーみたいな。女性剣士のキャスカも「好きで女に生まれたわけじゃない」と言ってたし。


死んだら小さな老人だったワイアルドの例を見るに、使徒によっては転生すると人間形態の姿も当人の望み通りに変わるようなので、そういうのもありえなくはないよなと。


ふむ、かなり脱線しまくって書いてきたけど、「ガッツの誤解」はそんな感じですね。


その誤解があるからガッツは「グリフィスに対して復讐心を忘れた自分を許せなかった」などという感じに一応理論付けて理由を構築してるので、一つの考察、一つの可能性としては、大体矛盾なくあると思います。


そういう考察の話はあくまで一つの可能性として。そんな他愛もない考察が、もはや続きが見れなくなったベルセルクを想像して楽しむ感じのきっかけにでもなれば幸いだ。


このガッツの誤解に関する話はグリフィスの考察と重複する感じでもあるかな。


ま、ボチボチ少しずつ書いてゆこうと思います。