魔性とその使徒4 | ぽっぽのブログ

ぽっぽのブログ

綴ることなく綴りゆき、やがて想う果て、彼方へ消えゆく定めの声か

いくつか前の記事で使徒のような存在は現実においてもいる、と記したのだが例えばーー


芸能人(=偶像的な人々)と呼ばれる一部の選ばれし人々(それが政治家でもなんでも同じだが)は、一般人と異なり特別であるとされている。勿論、その特別さは単に妄想に過ぎないがーー少なくともこの人が作りし人の世においては、そのような類の人々は特別であるとされている。


一人のアイコン的な人間がいたとして、その場合その人はその立場というものを現すために他者からのある種の崇拝のような力を必要とする。


一切は縁によってのみあらしめられる。なので特別な人々といえど、ただポツンと点在しているだけではその立場に立てない。必ず祭り上げられる必要がある。それが憧れや情愛などによる奉りか、憎しみや怒りなどによる奉りかは様々であるが。


それはファンであったり、アンチであったり。それはつまりその思念=信念自体が「供物」のようなものなのだ。そしてそれは私達人間一人一人の思念。その思念の波動が向かう先の対象をその思念通りに仕立て上げてゆくための力、供物になる。


その特定の人に対して全くの無関心の人々は関わることがないので、直接的な供物になりえないが、深層意識の領域まで考察するならあながちその限りでもない。


特別な人、そしてその特別な人を崇める沢山の人々、または憎む人々。それらが一体となって一つの事象をこの顕現の領域において具現化してゆくことになる。


そのような特別な存在になる人は、その他大勢の他者からそう望まれた結果である。その当人がそうなることを望んでいたのか、望んでいなかったのかも当然関係してくるものだが、それ以上に全体的な思念の流れが結果を大きく作用する。


例えば「自分はスターだ」と思い込んでも、ただそれだけでは相対的見地においてスターにはなれない。


数多の他者からその当人がスターであると信じられている必要がある。仮に当人が全くそう信じてなくとも沢山の人が「この人はスターだ」と信じ込みその思念をその当人に集中させるなら、その一つ一つの小さな思念が大きな思念となり、大きなうねりとなり、実際にその現実が体現されることになる。あるいはその当人が「自分はスターだ」と信じ込み、その信念が少しずつ他者に伝染(場合によっては洗脳や騙しとも言う)してゆくことによって、その思念の総体と現実化作用の力が大きくなってゆく。


クリシュナが「この世は信仰で満ちている」と説いたのはそのためだ。それは良い意味でも悪い意味でもその通りなのだ。人の世、その相対界は人々の思念の総合によって織り成されている。それ故に人々の心がどうあるかで、人の世は変化してゆく。


それはまさしく深層意識、集合意識のうねりのような働きの中から弾き出されてゆく一つの波の形だ。





時に私達は社会現象とも言える大きな流行りをビッグウェーブという。あるいは波が来ているなど。流行という言葉自体も「流れ行く」という言葉であり、海や川、その波を連想させる。もしくは風など。風もまた目には見えないが空気の波である。それは実際の私達の心および集合意識の動きの形なき形からあながち離れてはいない比喩描写なのだ。


ベルセルクの使徒とは欲望のうねりによって生み出された特別な存在だ。当人が使徒になるのは自分がそう望んでのことでもあり、不可避の運命の流れによる結果でもあり、またその当人の周りにいた人間達の行動の結果でもある。


現実においても使徒のような人々はいる、というのはつまり魔性に心惹かれた人々のことである。自他の欲望を自ら揺さぶり率先して刺激する人々、とでも言おうか。あるいは、もっとより日常的な身近な例だと先の記事におけるニーナのような人々。そして世にいうカリスマ的な人々など。この現実においては、大抵の場合は「承認欲求の餓鬼」のような人々だ。自分の何かしらの優位性を誇る者達など。


魔に惹かれる人々は世間一般で言うところの悪しき人である場合もあれば、バルガスのように世間一般で言うところの良い人の場合もある。しかしどちらにせよ、魔性に惹かれる者であることに変わりはない。


それはヨハネの黙示録において獣とその教えを崇める人々と呼ばれた存在たち。キリストが語った異邦人であり、この世(人の世)のものたち。


私達にとっては非常に慣れ親しんだその心であるが、その実態がどのようなものであるのかはベルセルクを読み解けばわかると思う。いかにうわべが綺麗に輝こうとも魔性の光は魔の光。まことの光とは異なる。その偽りの光を取り繕うために、その影では様々なおどろおどろしい実態が隠されている。


私達は基本的にそれを見ない。少なくともほとんど人は。しかし私達は深層意識、心の奥では本能的に気づいてもいる。その大いなる闇の存在に。それ故に、私達の奥底には大いなる恐れがある。それを「自らの存在に纏わる根源的不安」といってもいい。


それを見た者は、その実態を知り、それが自らのまことの望みにかなうものではないことを知り、そしてそこから出離する。