魔性とその使徒1 | ぽっぽのブログ

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綴ることなく綴りゆき、やがて想う果て、彼方へ消えゆく定めの声か

「いっさいの権力と栄光とをあなたに差し上げましょう。それは私に任されているので、私が"これと思う人"に差し上げるのです」


新約聖書における有名なサタンの誘惑の一節。


ベルセルクの世界には「使徒」という存在がある。因果律によって選ばれし特別な者達、と言える。


最も大切な何かを贄として捧げ、その取り引きにより、彼らは人間をやめて魔の者に転生する。表向きは人間の姿だが、使徒達にはそれとは別の魔物としての姿がある。超常的な怪物であり、超常的な力を持つ。


それは彼ら自身が望んだ姿。彼ら自身が渇望したところの、彼らが期待した本当の自分。(あくまで当人の勝手な理想とその力でしかない。宇宙の自然性=理法に反しているからこそ、それが「魔」なわけですしね)


それは本来のあるがままの自分(およびその自分が置かれた状況)に対する絶対的な拒否・拒絶・逃避とも言える。その自分の全てを捧げる(棄てる)ことにより、全く別の自分に生まれ変わる。それが魔性による自己実現。勿論それは偽りの自己実現に過ぎず、実際に実現されているのは自己ではなく欲望の方でしかない。(そしてそれは現実の私達においても同じ道理)


贄となるものは自分の命と同等、もしくはそれ以上に大切な何か。


人間というものは、縁の相互連立・相互作用によってのみその個体性が浮き彫りになる。なので、人は自分が執着するところの対象と一体であると言える。勿論、それは偽りの一体性であり、実際のところでは一体ではないが。


エゴの視点からでは、自己同一化の想像的作用により当人の感覚的には一体である。だからこそ、人は己が執着する対象の変滅を自らの変滅であると錯覚し、その錯覚から派生する諸々の苦痛あるいは快楽を得る。

(その錯覚が知識によって絶たれる時、正される時、苦痛と快楽から自由になり人の心は安寧に住する。その円満なる完成が全き平安、ニルヴァーナとも呼ばれる)


その大切な何かを「欲望を実現するための供物」として、贄として捧げるーーつまり我が身とその半身・分身ともいえるものを欲望に捧げるならば当然その対象との縁によってあらしめられていた個体性も棄て去られる。あるいは変容する、とも言える。その変容がベルセルクの作中内では魔の者への転生である、と言える。


魔の者となることは、人であることを辞めることだ。人であることを辞めて、その代わりに自分が望んだ何かに、自分が望んだ通りの特別な存在になる。


それがベルセルクにおける使徒。作中のセリフから引用するとそれは「悲しみも絶望感も決して及ばない超人の魂の獲得、人間の超越」。(そういや、うさんくせぇ自称スピリチュアリストが「苦しみが全く無い世界があります」とか言ってたなぁ。仏陀はその真逆で一切皆苦って言ったけどな)


その取り引きによって、世にいう地獄からの使徒(世にいうところのサタンの下僕のようなもの)となる。ベルセルク劇中においては、恐らく使徒達は基本的に不老不死だと思う。しかし死なないわけでもない。そうそう中々には死なない身体ではあれど、一応は殺されると死ぬ。


作中において「使徒の肉体の内部は魔界、地獄へと通じている」という旨がサドゥのダイバによって語られている。(余談だけど「サドゥ」って名称が出てくる漫画なんてベルセルクくらいじゃないのかな。サドゥが好きな俺としてはニヤリとする)


つまり使徒の肉体(多分、厳密には霊的な体だろう。使徒の肉体が傷ついただけではその傷口から地獄が広がってゆくことはないから)、その外皮は丁度この物質次元において本来は現存できない魔界・地獄の次元領域をコーティングして無理矢理に現しているような働きにある。


だからこそ、世界の理が変わり霊界と現世が重なり始める以前から、使徒達だけは例外として、現世において超常の人外なる者として物質界に肉の身を持って存在できていたのだろう。


それ故、使徒は人類全体の魔の思念、負の集合意識の一欠片が固体化されて現出してきた者達といえる。だからこそ使徒は人ならざる者・人外であり、魔の者であるのだが。


それ故に現世において死んだ使徒は皆、「魔の次元領域(フェムトが伯爵に語ったところの魂における魔の波動)を個体の形にコーティングして留めておく器を失う」が故に自身の内部から地獄へと引き摺り込まれ、人類全体の負の思念の大きな渦の中を永遠に彷徨うことになるのだろう。


そしてフェムトが語ったとおり、永劫の時の中でやがて自分が何者であったのかも忘れ去られてそれに伴い微細な霊体としての個体性も失われてゆく。そして大きな魔の一部に溶けてゆく。


以上の考察は作中におけるダイバやフェムトなどの発言からの推測であり、実際の作者がどのような設定を頭の中に考えていたのかは今となっては謎だ。


ただ私自身の瞑想における体験や形而上学的考察に照らしてみると、上述のような理由から作中で使徒が死ぬと魔界・地獄へ堕ちると言われていたのだろう。


要約すると「使徒の内部は魔界に通じていて、その使徒が死ぬと、魔の波動を肉体的な個体に留めていた器がなくなり、制御しきれなくなった魔の波動に当人自身が囚われ、その結果否応無しに地獄にのまれてゆくことになる」ということだと思う。


もし実際にベルセルクにおける作者の設定がそのようなものであったならば、それはこの現実における宇宙の理とほとんど同じである。


先程要約した地獄へ赴く道理は、そのまま現世を生きる私達にも適応される理だ。本当に漫画内だけの話ではない。(そんな感じで実際の宇宙の理や心の理が大方正しく表現されているから私はベルセルクが好きなのだ)


だからこそ、様々な古からの宗教は、その宗教がバクティ(神の存在を前提とした信仰性のもの)の流れにある場合、皆、必ず地獄と天国の描写が出てくるのである。


ベルセルクは志半ばで連載が断絶してしまったわけだが、もし物語が続いていたら「まことの光」についても描写されていたことだろう。それは恐らく妖精や人魚たち?などにそのヒントがあったと思われる。


と言うのも、髑髏の騎士が「妖精たちの気が残っている場所は、闇の者どもから身を隠せる」とガッツに語っていたので。実際のスピリチュアリティにおいても、まことの天は闇・魔・地獄の手の及ばないもの。だから概ね、この推測は間違っていなかったと思う。


まことの天のヒントが妖精たちなどの存在にあり、魔性は当然闇、そして欲望が望む光=魔性の光もまた虚偽の光であるから快楽はあれどその功徳が尽き次第再び六道輪廻に戻るだけのものーーベルセルクにおいての描写はそんな具合かなと。


幸いにもベルセルクは魔性の基本的な部分についてはほとんど描写され終えていた。魔性の描写が終わり、虚偽の光(恐らくファルコニア)、そして次にまことの光(劇中でいうところの本当の光の鷹)、そしてこれから妖精王ダナンの登場を機に本格的に本題へと入っていく予定だったのではないかと思う。


だから物語が進むにつれて闇の深さが徐々に影を潜めて、明るくホンワカしてきていたのは真っ当なことだったと個人的には思う。


中には「作者のウラケンは丸くなってもう昔のようなドロドロ&ギラギラしたものが描けないんだ」と批判していた人も少なからずいたのだが、「物語の自然な進展に合わせた自然な変化であった」というのが個人的な感想と見解だ。絵柄の変化もそれに順応していて違和感は感じなかった。むしろピッタリな変化をしてきていたなと思う。


さて、その魔性であるが、その象徴がベルセルクにおける魔のイデアと五人の御使、そして使徒とその働きであったわけだ。