脱皮5 | ぽっぽのブログ

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綴ることなく綴りゆき、やがて想う果て、彼方へ消えゆく定めの声か

脱皮すること。それが本当の意味で変わってゆくということだ。自分から離れて存在する何某かを獲得してゆくことではなく、それは棄てることだ。かつて自分であったものがもはや今や自分ではなくなること。そしてその古いものを棄てること。それが幸福への変化だ。


想像で描き出した新たな自分への期待を追求し、実現し、自己イメージを何層にも上塗りしてゆくことではない。それは本質的には何も変わらない。当然、単に遊びとしてはそれは大いに価値がある。


しかし幸福への必要な変化とはーー本当は変化など必要ないがーー自分自身の存在における核心の変化だ。勿論私達の真の実在は決して変化しない。しかし「私は在る」から自ずと流出し派生してくる通常の意味合いにおける「自分」は真の自分と共にある必要があるのだ。何故なら他でもないその当人がそれを熱望しているからだ。


そしてこれが奇妙なことなのだが、真の自己である真我から離れて存在するものは何一つ無いが故に初めから人は満たされてもいる。だからあるがままに在れば他に必要なことは何もないと賢者達は言う。


ただ偽りの自分はそれを隠してしまう。想像において当人の中で非自己であるものを自己であると誤解し、錯乱し、その無知から苦しみが生まれる。単なるロープを獰猛な毒蛇と見間違えることによって、その見間違いを起点とした恐怖などの苦しみが派生するようなものである。


その苦しみは偽りの知識が正しい知識によって除去させられるまでは続く。ロープは初めからロープであり、毒蛇ではなかった。なので何も変わってはいない。何か新たなものが現されたわけでもない。それ故、必要な変化は獲得というよりかは放棄なのだ。あるいは誤解の是正だ。


真に新しい自分とは、イメージとしての自分が確立される以前に既に在るものだ。その自分があって初めて自分をあれこれ想像したり定義したり演出したりできる。しかし想像されたものに過ぎない自分は実体がなく、確かなものでもなく、中身などない。それ故、本当の意味で満たされることはない。あるいは既に常に真我に満たされている。しかしそれを知らないならーーというよりそれを拒絶して憎むならーーそれは不満足なるものでしかない。


人が本当の意味できちんと成長し変わってゆくならば、それは脱皮になる。今はまだ存在しない他の自分を何かの条件を満たして現して実現しようーーこれは成長ではなく変わることでもない。脱皮ではなく、作り物の偽物の皮を自分に覆うことでしかない。


その原動がそもそも苦しみに基づいている。苦しいから変わりたいーーそれは真っ当な意志だが、既に古くなった自分という皮の中に無理に留まろうとすれば苦しむことだろう。そこに更に皮を覆い被せるなら更に窒息するだけだ。それは悪循環だ。


もしその古くなった皮、もしくは古くなりつつある皮を脱ぎ捨てるならば、その時は呼吸も解放され窮屈な締まりも解放されるだろう。


それは自然に起きてゆくことであるが、そのプロセスが本来のスピリチュアルであり、それは精神世界がどうの霊的云々がどうこうというものではない。シンプルにただまことの幸福のことだ。


この脱皮を促すものが元々の宗教であったが、現代における一般的な意味の宗教は殆どその機能が失われている。代わりに、俗な欲望ではまとえないような更に豪勢な偽りの皮を身にまとうための道具となっているだけだ。そのまとわれた虚偽の皮、虚偽の自分は俗な欲望を単に満たしているだけのこととは比べものにならない邪悪さだ。


ニサルガダッタ・マハラジ は「自分(エゴ)が永遠の存在(真我、解脱者など)になろうと望むことに比べたら、まだ男性の女性に対する想い(性欲、愛欲)の方が純粋だ」と語った。


脱皮のプロセスは人それぞれであり、段階も様々だが遅かれ早かれ全ての人に起こる。その段階になるとそれまでさっぱり興味もなかったスピリチュアルな事柄に関心を持ち始める。それは正しくもあり、また落とし穴にもなり得る。


見たところ、現在世に言われるところのスピリチュアルというものは落とし穴でしかない。しかしそれはそうしていたい人々が夢中になっていればよい。自己啓発でもなんでも追求し尽くしてみるといい。最終的にはその無意味さを理解するだけだ。


真に誠実な人はバクティ(信仰)かジニャーナ(知識)の道をゆくことになる。そこに必要な助けはすべてある。通常、そこでは特別な出費はない。特別、お金はかからない。真理とその教えは売り物ではないからだ。


そして最終的に人は脱皮する。


当然それもまた一つの概念でしかない。なので「それは未来に起こるであろう」という期待ではない。それではシャンカラや仏陀の「時を要するものを追求してはならない」という慈悲ある言葉を無下にすることになる。その期待が皮の中に当人を留めてしまう。


しかしそれでも脱皮は起こる。


そうしてようやく人は初めから自らであったものを知る。