AKIRAにおける宇宙意識とスピリチュアル | ぽっぽのブログ

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綴ることなく綴りゆき、やがて想う果て、彼方へ消えゆく定めの声か



AKIRAの題材は宇宙や生命、その霊感性などのシリアスなものなので、心地よいだけの幻想ファンタジーのようにはゆかないストーリーだ。


光と闇、その上でのその双方を超えた一なる宇宙意識。


現実における宇宙のスピリチュアリティ自体も人の勝手な希望の都合だけでは済まない。むしろエゴからすれば「それ」は最も憎むべきものであり、恐ろしいものであり、否定すべきものでしかない。


だからこそコーランでは御国の到来は不信仰者にとって地獄となる、と語られている。


「自分はスピリチュアルな人間だから大丈夫」と自惚れたエゴは「それ」を侮っているが、実際に自分で垣間見ればわかる。何故、バクティ(信仰・信愛)において「神を畏れ、畏まりなさい」と口煩く説かれているのかが。


「自分は思い上がっていたほどにはスピリチュアルではなかったし、ましてや霊感なんてものもなかったのだ」とわかる。実際に自分で「そこ」へ行くことになれば。


それを知らない人は単なる自我意識の過敏性を霊感だと勘違いして思い上がっていたりするが。確かに霊能力を持つ人は存在する。しかし、自称者の数ほど沢山いるわけではない。悟りについても同様。それは僅かだ。


ギーターにおいてもアルジュナは「それ」を見た時、畏れ慄いた。アルジュナほどの純粋で誠実な人間でさえ。アルジュナは震えが止まらず、それまで自分がクリシュナをただの人間だと思って接してきたことを強く悔いて赦しを乞うた。


それと同じような描写がアキラにもある。


「俺は宇宙意識の道理を知っている。実際に思いのまま物理現象を操れるし、霊的感覚も思いのまま透視できる」


鉄雄はそのように思い上がっていたし、実際に物語の中では霊的超能力はトップのレベルにあった。


しかしアキラの頭の中、つまり宇宙意識を覗いて見た瞬間に飛ぶように逃げ出し、震え上がり縮こまってしまうのであった。


その後に鉄雄が一段階大きな覚醒意識に到達すると、彼は今度はアキラにひれ伏すようになる。


アキラは過去の覚醒において自我が失われているので基本的には何の問題もないが、鉄雄は自我を伴ったまま覚醒意識の次元に入って行ってしまったので、力と自我の釣り合いに問題が生じてくるようになる。


そして力の代償として地獄のような苦しみと格闘することになってゆく。最終的には鉄雄は力に飲み込まれて、自我が崩壊し、暴走状態になってしまう。


一方アキラは自我が宇宙意識に溶け込んでいるので、そのような問題は無いままなのだ。アキラには崩壊するための自我自体がなくなっていたということだろう。


しかし鉄雄は最後の瞬間まで個我意識が残り、それ故にそれが崩壊した時に混沌としての姿になってしまった。(オウム麻原は刑務所内で現実を受容できず幼児退行して狂人のようになってしまったが、それに似たようなものかもしれない。麻原の場合、陰謀論もあり、投薬によって廃人にさせられたという説もあるが)


それでも物語のラストでは鉄雄も最後は宇宙意識に回帰されることになった。


現実におけるスピリチュアルな観点からの宇宙・生命・霊性も一筋縄では済まないものだ。


一部の愚かな人は自分にとって都合の良いキレイゴトをスピリチュアルや真理であると盲信しているが。それは偶像崇拝でしかない。彼らはただ自分の快楽を崇拝しているにすぎない。


スピリチュアルというものがうっとり酔えるファンタジーのキレイゴトだけで済むなら仏陀も「一切皆苦」とは語らない。キリストも「一切を断ち切り捨て去り、全身全霊でただ主だけを愛しなさい」とは言わない。コーランも口煩く何度も「主を畏れなさい」とは言わない。


自我を気持ち良く欲すがままにさせときゃそれでスピリチュアル〜♪程度のものだ。それは魔性だ。


この点を都合良く無視して、スピリチュアルというものを単なる精神世界ファンタジーと混同している人も少なくはないのが現状だ。


そのような人は二つの内の一つだけしか見ようとはしない。片方から目を背けるし、目に入ったら憎んで拒絶する。だから他ならぬそのスピリチュアルとやらが差別を生み出す結果にしかならず、根本は何も変わっていない。それは丁度、悪魔が真理を盗み出し、自分を神や善に据えて自惚れているだけにすぎない。それはスピリチュアルとは何も関係がない。エゴの戯言でしかない。


アキラの物語終盤、金田はこの宇宙は結局苦しみでしかないのか?という旨を問いかける。


キヨコはそれを否定はしなかった。「全てが苦しみにすぎない。不仕合わせしか生まれない」、キヨコはそれをあえて否定はしなかった。その代わり彼女は「でも、仲間ができた」と言う。言葉に頼らなくても理解しあえる仲間ができた、本当の仲間ができた、と。そしてそれは表面上敵対関係にあった鉄雄でさえ例外ではないと。


そう言い残すとキヨコは仲間達と共に微笑みながら光の中に消えてゆく。


それはかつて鉄雄が垣間見て震え上がった光。


この場合の光とは、ラマナ・マハルシが「光なき光」と描写した「それ」だ。闇と対になっている光のことじゃない。それとは違う光が描写されている。「光・闇」を一つのものとして包括する「何か」として。


何故なら「それ」は漫画内において「何も描かれてない」からだ。添付画像の集中線の真ん中だ。そこには何も描かれてない。何も無い。


「それ」とは異なる「光と闇」は漫画内において、線や言葉で描写されている。物理的な面の描写、心理的な面の描写。その双方における光・闇は線や言葉で表現されている。名称と形象の次元にあるものは、言葉と線によって描写できるからだ。それは漫画内だけでなく、実際の私達の目の前の世界も同様だ。この顕現の宇宙は名と形によって現されている。


しかし二の無い一なる一を超えし宇宙意識は言葉や形の次元ではない。それはアシュターヴァクラ・ギーターにおいて「何も存在せず、無も存在しない」と言われる「それ」だ。


それが表現されているのだから、漫画内のそのコマにおいて、「それ」は空白として間接的に描写されているのだ。


そのコマにはある種の眩しさがある。おかしなものだ。そこには「何も描かれてない」のだから。にも関わらず、そこには眩しさと言いうる何かが表現されている。


通常、何かを表現するには表現する何かをあらしめなければならない。描き出したり、歌い出したり、書き出したり。「出さなければならない」。


しかし漫画内において描写されている宇宙意識は「何も描かれてないことの中」に表現されている。


大友克洋は描き込みが非常に細かい。それまで非常に細かく精細に様々なものが線で描写されてきた。そして宇宙意識の描写になると、一気にその線がパッとなくなる。そのコントラストが「何も無い」を浮き彫りにして、それまでギチギチに詰め込まれてきた情報量からの解放感を表現できている。


だからキヨコが微笑みながら消えてゆくシーンには何とも言えない質感がある。それは光、解放、還元、無限を超えた無という無限の有存在、そのような何かを想起させる。


これは宇宙意識・生命・スピリチュアル・霊性を題材にした表現描写の中では、実際の宇宙のスピリチュアルに近いと思う。


そして当然だが、それはエゴが目を背けたくなるようなおぞましさや汚さや闇、残酷さや残忍さなどもきちんと見抜いてゆかなければ、理解できないものだ。


だからアキラという漫画には人がグチャッと潰れて死んだり、あっけなく虚しく残酷に殺されたりする描写もある。現実世界における人の死もそうだからだ。


どんな美人もイケメンもグチャッと潰れて内臓ぶちまけりゃあ、もはや単なるグロい肉片でしかない。仏陀はそれが美人の形として留まっている間でさえ、ただの肉片に過ぎないと説いた。それが現実であるからだ。それを歪めるのが欲望の妄想による視野なのだ。


エゴが「そこにある」と思い込んでいるものは実は「本当は存在していない」のだ。だからこそその現実をエゴは恐れるのだ。それが虚しいと信じ込んでいるが故。きちんと見ればわかる。本当に虚しいのはありもしないものをあると信じようとする偽りの希望の方であると。それが偽りでしかないことを知るならばもはやわざわざ虚しさを自分で思い描き出す必要からも解放されるのだ。


ただそうなると、快楽が抽出できなくなる。だからエゴは渋るのだ。スピリチュアルを。真理を。神を。


アキラに表現されているものは前述のそれだけじゃない。笑いも感動も、震えたつようなカッコよさも、滑稽さも、人間が持つ意地の誇りも、狡さも、意地汚さも、戦う意思も、愛することも、恋することも、欲情することも、何であれ様々なものが描写されている。


その全てをひっくるめた上で、その全てを超えたものとして終盤に宇宙意識が描写されているのだ。


だからアキラにおける宇宙意識の描写は、比較的実際の宇宙のスピリチュアルと近いのだ。だからこそ、私はこの漫画が好きなのだが。


そして「はてしない物語」と同様に解脱までは描写されていない。解脱は光の中に消えていったキヨコ達のように、実際に自分自身をそこにおいて失うまでは成就されないのだ。


そこではもはや、なんの物語もない。本質的には今でさえ、それは存在しない。


「それに気づけば静かになる」


アシュターヴァクラ・ギーターに記されている通りなのだ。