ハッピーバースデーつーゆー | ぽっぽのブログ

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綴ることなく綴りゆき、やがて想う果て、彼方へ消えゆく定めの声か

梅雨なんですね。梅雨は雨が降る。



洗濯物が乾きにくい季節ではあるけれど、個人的に梅雨は嫌いじゃない。雨って綺麗だからね。もちろん、晴れも曇りも。



昔やっていたバンドでこんな歌詞を書いた。



「晴れも雨も曇りでも空だ」



もし空を愛すことができたなら私達は全ての空模様を差別なく愛すことができる。事実、それは一つの空なのだ。



空模様は空があるが故に自然に生まれるものだ。それは空に内在する無限の様相の現れに過ぎない。



私達の心意識も同じようなものである。



意識の空に心の模様が現れる。時には晴れ、時には曇り、時には雨。風が吹き、音が鳴り、落雷が暗闇を切り裂く。その姿は定まることなく移ろい、無限の姿を瞬間から瞬間へと描き出す。



もし私達が空そのものを無垢に愛すことができたのならば、私達は空模様から自由になる。



空模様に左右されることはなく、その背後にある普遍性を全ての模様に見出し感じることができるようになる。そうなれば全ての模様に同じ一つの普遍かつ不変の愛が在ることを理解する。



それが自然なことだ。本来、それが心にとって自然な在りようなのだ。



聞いた話だから真偽は不明だが、現代ではこんな技術があるらしい。それは例えば雨雲にミサイルのようなものを撃ち込み、その爆破で雨雲を掻き消して雨を無理矢理止めるような技術だ。あるいは雨の元になる元素を空中で飛散させて雨雲を作り出そうとしたり。



確かにある程度はそういったことも可能なのかもしれない。その場合、元からそこにあった天候を左右する元素はどこかに押しやられ、全体のバランスが歪になってゆくのだろうが。



心も同じように無理矢理何かを強制すれば無理矢理ある程度は変えられる。しかし実質は変わらない。押しやられたものは変わらずに消えずに何処かにあるままだ。



興奮的な高揚を欲し、消沈を憎み恐れるならば人は戦わなければならなくなる。緊張し、恐れ、しがみつき、強張りながら。



しかし実際のところでは興奮も消沈も存在してはいない。



空模様は絶えず移ろいゆくという点において確かな存在性があるとは言えない。空そのものは常に在るという点において存在性が確立していると言える。



心意識もまた同じだ。



それに気づけば、心の陰陽は一つのバランスに収まる。喜びは正気を失うような興奮から自然で透明になり、消沈は憂鬱から淡い落ち着きになる。二つが争わない時には二つは一つを現す。



その一なる何かが本当の自分自身だ。感情は単に派生的なものでしかない。



では感情は無価値なのかと言えばそうではない。それでは短絡的な虚無主義や閉塞の固執を悟りと混同してしまう。



感情が自己になると心は存在を失う。その自失の不安や苦しみを搔き消すために興奮的な幸福が必要になる。その幸福が差別に依るものであるから、その差別自体が幸福をいずれ対極の苦しみに変える。



その観点からの感情は無価値だ。無意味だ。キリストが言ったとおり、例え世界の全てを手に入れようと自分自身を損じていたら意味がない。



意味とは何だろうか?



それはその本質だ。



「カエル」という言葉の意味は究極的には言語の中にあるのではなく正にカエルと呼ばれるその生命存在にある。



全ての実質的かつ本質的な意味はただ存在そのものにある。価値も同様。



それはアートマンやブラフマンと呼ばれたり、クリシュナやアッラーと呼ばれたり、あるいは空や無や有とも呼ばれる。



しかしそれらの言葉が指し示すものはただ一つだ。



それは私達一人一人の存在そのものだ。



私はそれだ。あなたはそれだ。彼は彼女はそれだ。あれもこれもそれだ。



感情に実質である真実の自己が伴う時、心とその感情は真実の反映となる。心は本来の主に仕えるようになる。



感情は決して虚無的なものではない。心もまた虚無的なものではない。



コーランには「存在する全ては自覚の有無に関わらず私(アッラー=主)を崇拝し、讃えている」と記されている。



何故なら「それ」が真実の自分自身だからだ。



誰もが自分自身を愛している。



最愛が在る時、誰も虚無的にはならない。そうではないだろうか?



あなたが愛する誰かと共にある時、あるいは愛する何かをしている時、そこに虚無は感じられないだろう。



愛が虚無ではないことを私達は体感的に理解している。しかし私達はその最愛を失うと一転して虚無に苦しむようになる。



それは単に愛の源が自分から離れて独立する何かしらの対象にある、と誤って信じてしまうことから生まれる幻覚にすぎない。



なのでバクティにおいては「主を愛しなさい」と説かれる。それが自然なことであり、そもそも私達は「それ」を初めから自ずと愛しているからだ。



その源は他ならぬ自分自身にある。



ただこれだけが真に知るべき唯一の知識だ。他のことは全てその補足にすぎない。補足の方に夢中になってしまうと人はスピリチュアルな学びというマーヤー・妄想に惑わされ頭の中にごちゃごちゃと言葉のガラクタをコレクションしはじめることになる。



愛は棚上げにされクリシュナやガネーシャが無視され、空は空模様と混同され、全ての意味が根底に虚無を隠したベニヤ板になってしまう。



それはナンセンスなことだ。





さて、ちょいと色々あって(実際、特にない)更新が途絶えてたけどまたボチボチ再開してゆきます。



ただどうも今は先の一連の記事はお休みの時期みたいだ。その間何も書かないでいてもいいけど、こういう風に何かを書くのもまた一興。



ま、適当にやってゆきます。