心 12 ~苦しみの所有者~ | ぽっぽのブログ

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綴ることなく綴りゆき、やがて想う果て、彼方へ消えゆく定めの声か

心には想像しうる限りの全てが内在している。心の本質は無限だ。心はそれ自体が神でもありまた虚偽でもある。


そんな話はさておき、日常を生きる私達にとって大切なのは「心が善い具合にあるのか、悪い具合にあるのか」、「悪い具合になった時、どのように自分を助けることができるか」という点だけだろう。要点はそれだけだろう。


心の隠された領域は確かに魅力的である。私もかつては大いに夢中になったものだ。


煌めく霊妙な光、揺らめく光の陽炎、内側から迸る至福、原子の躍動が物質を通し実際に知覚される宇宙的な意識、あらゆる幻視のヴィジョン、宇宙に拡がる自意識の拡張…。


書き出したらキリがないが確かにそういう世界は魅力的である。しかしそれは私達が生きる日常からあまりにかけ離れている。


それらの体験は"正しく解釈できれば"確かに学ぶものも多い(誤れば魔境になる)。しかし結局は通常の意識に戻ることになる。結局は通常の意識で通常の日常を生きねばならない。


霊妙な意識体験で「宇宙の真理を垣間見た!」と興奮しようとも、次の日仕事へ行けば世界は何も変わっていないのである。遠くの国では未だうんざりするような爆撃や銃撃が続き、この国では人々の悪意が目には見えない銃弾として冷たく飛び交う。


何か嫌なことがあれば結局いつも通り苦しみ、執着があればその苦しみは心の中で誇大解釈されていつまでも引き延ばされ、

人に出会えば相手に嫌われたくないと恐れ、来るかもわからぬ未来に思惑は動揺し、欲望の対象を想えば心は焦燥に駆られる…何も変わってはいない。


神秘体験そのもの自体は何の役にも立ちはしない。


「その通りだ。何の役にも立たない。それら全ての境地は、やってきては去る。しかしあなたが修行を続けたら"その根底に"何かを発見する」

~鈴木俊隆老師~


老師の語る"その根底"はいつでも直接向かうことができる。神秘的な意識次元には道のりがある。道のりがあり、距離があり、様々な手順や手段がある。それは時を要する場所にある。


そしてそれは時と共に現れ、時と共に消え去る。ひとたび消え去れば単なる記憶と化し、もはや夢と大差のないものになる。


しかし私達の根底にあるものは常にある。それは時を要するものではない。それは現に目のあたり経験されているものと共に常にある。それ故、そこへ向かうには距離が必要ない。時間も必要ない。手順も方法も必要ない。


ただ気づくことがあればいい。その気づきは認識だ。私達は通常、この認識が心に属しているものだと思い込んでいる。事実は違う。厳密には心に認識はない。


心は必ず私達に認識されなければ認識されないものだからだ。心の中の言葉、感情、感覚、映像…それらはそれ自体に認識の能力を有していない。それらはそれ自体に識別智を有していない。

「識別智によって識別智を持っていない観念が(非自己として)否認される」

~シャンカラ~


だから想念は必ず私達に認識対象として現れる。どんな喜びもどんな苦しみも、想念は想念自身を認識できない。肉体もまた肉体自身を認識することはできない。


この認識は自己の本性である。私達の本当の自分はそこにある。しかし個我は通常、心身を自己と同一化している。それ故、あたかも自分が限定された個人であるかのように現れる。


この限定自体は問題ではない。存在する全てはそれぞれ皆、限定にある。至高の存在でさえひとたびクリシュナや阿弥陀などの姿を纏えば、それぞれその限定を帯びる。


この限定が私達の存在そのものを限定することはない。これが私達の学んでゆくべきことだ。そしてそれは常に今、直接学ぶことができる。


書物の知識にせよ意識体験にせよ、それらは間接的なものでしかない。それらはそれ自体を真実であると考える限り何の役にも立たない。それらは補助にすぎない。


幼子は自転車に乗る時、補助輪を着ける。補助輪は補助として役に立つ。しかし補助輪自体は単なる小さな車輪にすぎず、それ自体は走行能力を有していない。


過去の偉人や教義や意識体験自体を神棚に飾って拝んでいる輩は、補助輪を拝んで満足しているようなものだ。それでは自転車は前に進まない。


それでは何も学べない。私達の成長は単なる知識欲や偶像称賛の充足にすぎないものになってしまうだろう。それは望ましいことではない。


確かな幸福のために苦しみの克服が望まれている。これが単なる書物の知識を得ただけで成就するならば宗教学者は皆、ムクタ(解脱者)となっていることだろう。


お勉強のことは忘れてしまうといい。もし心が善くあるならば八正道など知らずとも自然と八正道は体現される。もし自己が理解されず心が個我として放置されるままなら、八正道を暗記していてもその記憶が当人を成長させることもない。


教義をお勉強するのではなく、キリストが語った通りただ求めればよい。そうすれば必要なものは得られる。固執がなければあらゆる宗教、あらゆる聖者からその時々に必要とされるものが学べるだろう。


真理、自己そのものを学ぶ必要があるのであり、特定的な宗教の教義だけを学ぶ必要は特にないのである。勿論、それが全く無意味であると言っているわけじゃない。


ただ人間のエゴ意識というものは自分が好むものだけを絶対として称賛し、固執する気質にある。その偏見をスピリチュアルに適応したところで個人はそのエゴ意識からは解放されないだろう。


結局、苦しみは日常の中に変わらずにあるままだろう。それでは何の意味もない。


以前も記したが、苦しみの克服というものは苦しみがきれいさっぱり消え去って二度と現れなくなることではない。


苦しみの克服とは自己を理解し、その自己は自己以外に何も有していないことを知ることだ。


私達が何故、苦しむのかといえば心に現れた苦しみを「自分の所有物である」と錯覚することに依る。そして心に苦しみが現れるのは「自分の所有物」という対象の変滅に依る。


例えば苦しみに喘ぐ人がいたとして…

その人に「そんな苦しみは下らないガラクタだ。バカらしい」と言ったならば、多くの人は「自分の苦しみが否定されたことに反感を持つ」のではないかと思う。


人が苦しんでいるのに何だその言い種は!という感じに。何故かと言えばその苦しむ当人がその苦しみを大事に抱えているからだ。その苦しみに同一化し、それを我が映し身として溺愛しているからだ。


基本的に私は苦しむ人がいたら愚痴を聞くし、できる範囲で共感を示し慰めもする。しかしそれだけでは意味がないことも理解している。自分の経験から見ても慰めは一時の気休めとしては有益なのだが、根本的な改善としては機能してくれないからだ。


それは他の何か、単なる慰め以外の何かによって補われる必要が本来はある。根本的な要因が放置される限りそれはじわじわと当人の中で肥大化してゆくことになる。


私達は皆が皆、ナルシストである。それもとんでもない重症ナルシストだ。私達は自分の特別さというものに固執する。


ナルシシズム自体は自然なことだ。しかしそれが誤ったものである場合、ナルシシズムは恐ろしい毒となる。純粋な自己愛は普遍性にある。誤った自己愛(自我愛)は差別性にある。


この差別が普遍的存在に対してありもしない違いを造り出す。当人の心の中で。この差別観が自分を立派(幸福)に見せもすれば、また自分を卑小(不幸)に見せもする。この差別観からは普遍性は決して見えてこない。


私達が幸福に酔う時、それは自分の特別さというものの光の部分だ。私達が苦しみに酔う時、それは自分の特別さというものの闇の部分だ。それは自分が特別であることを当人にひしひしと体感させてくれる。


このナルシシズムが末期になると苦しみが幸福を凌駕するレベルになる。通常、人はこのレベルになるまで事の重大さを自覚しない。少なくとも私は自覚しなかった。


この一連の流れはドラッグと非常に似ている。ヘロインは涅槃と称される。私はヘロインの経験はないが、それは究極の幸福であると言われる。最初はその部分しか見えてこない。ヘロインの依存は遅延性にあると言われるからだ。


しかしある時点で依存が確立され、更に薬効への耐性がついてくると、薬効が切れた時の反動が倍加して強く現れる。それを凌駕する快楽を得るために量を増やすと更に苦しみの反動も強まる。


結局、トータルで見るなら苦しみにしかなっていないことが理解される。しかしそれは初めから理解できることなのだ。世俗的な幸福もまた同様である。しかし私達は聖典や聖者の警告を無視してしまう。


苦しみがなければ幸福もないんだ!と語りヘロイン中毒者と同じ道を歩む。


私達は「人生楽しんだ者勝ち」位にしか考えず、ただ快を追求し、自分の人生の素晴らしさとやらに酔いしれる。それは実に光と言える幸福を感じさせる。が、遅かれ早かれその光に等しい闇は現れるものだ。


作用には反作用がある。この理自体は決して変えられない。


私達にできることはただ幸福のリズムを学ぶことだけだ。二元性の範疇にある差別を元とした幸福は実際には苦しみである。これが理解されたならば情動の起伏の中に幸福を探すことは誤りであるとわかるだろう。


欲望はまぁ、それはそれでいい。映画が観たいなら観ればいいし、音楽が聴きたいなら聴けばいい。セックスがしたければすればいい。それはそれでいい。


ただそれと同時に私達はそれらに酔いすぎないことを学ぶ必要がある。得られた情動はそれに等しい正反対の情動を伴うからである。光に執着すればその執着は等しく闇にも執着する。


正義に執着する者は必ず悪に対し拒絶や否定でもって過度に執着する。それら全てはバランスを欠いた情動であり、その目的は自我の存在感覚の増強のみにある。


この自我こそが諸々の所有を表明し、その有所得の概念に基づき自分自身の心を欲に応じて揺さぶる。その自我がまた苦しみの所有をも表明する。


この苦しみの所有者は単なる心であり、苦しみ自体もまた想いであり、それ自体に認識はなく、変滅の性質にあるが故に存在を持たず、自己ではない。


これが学ぶべき要点の一つだ。大切な点というものは沢山あるし、ある意味無限にあるのだが、智の観点からならばシンプルに自己と非自己を識別することだけが最も重要な点となる。


いつであれ苦しみが現れた時はその苦しみが本当に自己の所有にあるのかどうかを冷静にじっくり考えてみるといい。冷静になった時点で既に苦しみは大きく減衰している。


そこから更に苦しみの所有を主張するその自我を見てゆくならば、それは認識の対象であり主体ではないことが判明するだろう。その主体は何も有してはいない。幸福も苦しみも有してはいない。


そのように自己を観じるならば心は自ずと静まってゆく。

「自己によって自己を観じて、それを認めることなく…」

~仏陀~


私達のエゴ意識は「ただざわめいていたいだけ」なのだ。エゴ自体は存在を有していないことに本当は気づいているからだ。この気づきへの否認が恐れになる。この恐れが情動を駆り立て自我の存在感覚を増強する。


全ては自己への誤解にある。私達のエゴ意識は自己に内在する愛を自分だけのものにしておきたい。この執着が他ならぬエゴ自身を苦しめもする。エゴはそこに苦しむ価値があると信じているが、真の望みが幸福である以上苦しみに固執することは目的に叶わない。


このジレンマが私達をキリのない飽くなき追求(貪り)へと追い立てる。この衝動は自分自身が静めなければ永遠に続く。その衝動は始まりのない初めから続く呪縛のようなものだ。


欲望をささやかに楽しむこと自体はさほど害はない。ただ執着が理解されなければ心はバランスを崩し過剰にざわめき続ける。この過剰性が苦しみだ。


私達は自我の単なるナルシシズムを純粋な自己愛へと移行させる必要があるのだ。