信仰、聖典 5 | ぽっぽのブログ

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綴ることなく綴りゆき、やがて想う果て、彼方へ消えゆく定めの声か

私達の個我というものは自覚の有無に関わらず自分で自分を演じている。その台本となるものは「自分はこれこれこんな人間である」という"信仰"だ。それを想像と言ってもいいかもしれない。


「自分はいついつどこで生まれた某氏で、性別はこうで、こんな両親とこんな国の元に生まれ、こんな経験を通してきた、こんな所有がある個人」というような信仰だ。


その全ては記憶=想念だ。単なる表面上の見せかけとしては確かに現実だ。仮定的・仮想的な意味での現実だ。本当の意味においては決して現実ではない。それら全ての想念には実体がない。実体が伴っていない=存在を有していないから確証もない。


心は想念によって形成されている。想念は信仰(当人が信じるところに従った想い)によって形成されている。


心の基本的な機能である信仰はその究極の礎が神にある。神を信じようが信じまいが現実の事実に関係はない。神なくして顕現(宇宙・心)は存在しえない。心が現実(真実・神)に順応するか否かは、神にとっては関係はない。しかし心自身にとっては関係があるどころか多大な影響を及ぼす。


完全な信仰はそれがそのまま神との合一を意味する。信仰の本質は神そのものだ。心は本質的には神性を帯びている。それが本当の自分、真実の自己だからだ。


創造物の全てはそれが粗雑な物質次元でも微細な霊的次元でも皆等しく神性を帯びている。心の信仰という性質とその力がどのような方向へゆくのかで私達の心の内容は劇的に変わる。


神を否定することは自傷行為のようなものだ。自分で本当の自分を否定するようなものだ。自分で自分を否定しているならば根本的な苦しみは尽きることがない。


信仰を真実に向ければそれは真実になる。虚偽に向ければ虚偽になる。真実とは神であり、虚偽とは神ならざるもの達(偶像)だ。


この世の全ては人形劇のようなものだ。個人としてのあなたや私は完全に偶像だ。偶像崇拝とは本当は存在していないものを実在であると信じ、崇拝し、その崇拝の内容に応じた想いを捧げることだ。


それは聖典において罪とされている。罪というと大袈裟かもしれないが要するに単に苦しみだ。偶像に夢中になる限り神は蔑ろにされる。本当の自分を自分で蔑ろにしていたら当然自分は苦しむ。それだけだ。


この苦しみを和らげようとして人は差別の働き(識別を欲望で曲解する働き)によって執着対象を心の中に作り出す。その執着から得られる動揺(高揚・落胆、快・不快)でもって根本的な存在苦を掻き消そうとする。


蚊に刺された箇所を爪を立てて掻きむしり痒みを打ち消そうとするようなものだ。痒み(存在苦)は痛み(執着)という別の刺激によって一時知覚から消える。その落差が快楽(幸福)に解釈される。しかし本当は痒み自体は消えてはいない。


そして爪を立てて掻きむしることは大なり小なり自分にとってダメージになる。ただ快楽(虚偽の幸福)に感覚が麻痺していてそのダメージ(執着の本性である苦しみ)に気づかない。


明白に気づくのはダメージが快楽を凌駕した時だ。蚊に刺された時、あまりに激しく掻いてしまえば掻き壊して傷になる。その傷は完治するまで痛みを残す。痒みが帳消しになっても痛みが残ってしまえばもはやそれは快楽にならない。しかし刺激にはなる。その意味では痒みは確かに隠せる。


虚偽の幸福を追求するならば誰もがそうなる。もっともっとと過剰になってゆく、ある時点で快楽より苦しみが勝る状態になってゆく。


度を越した欲望(幸福)の追求に駆られる人間のありさまはそのようなものだ。そうだ、かつての私だ。私をはじめとして多くの自我は基本的に自身の存在苦にきちんと向き合うことを避けたがる。エゴのプライドがその根本的な存在苦を認めたがらない。自分が虚しく苦しい存在であってたまるかよ、と。


この抵抗があればこそ人は幸福を追求するエネルギーを生み出せる。抵抗値が高ければ高いほど強ければ強いほどエゴ意識の存在感覚は強まる。エゴ意識の存在感覚とは動揺だ。エゴ意識の強い人間ほど強い快楽が得られる。そしてそれに比例した苦しみも。


根本的な苦しみというものは虚無感なり孤独感なり言い方は色々あるがそれは偽りの自己イメージに過ぎない。虚無感と孤独感が単なる想像に過ぎないことは以前の記事に記した。


そして孤独な人間だけがその自己イメージを否定して「私は孤独ではない!」と浮かれることができることも記した。虚無感についても同じだ。虚しい人間だけが"自分の"豊かさとやらに浮かれることができる。


こういう働きは自己の二重否定のようなものだ。だから仏陀は苦しみに気づくことが第一歩であると語り、キリストは今富める者は不幸だと語った。


根本的な存在苦というものはバクティ(信)の観点では神への否定・不信仰だ。ジニャーナ(智)の観点では自己否定だ。信仰の道をゆくならばわざわざエゴの悲惨で惨めな実態を直視してその正体・非実在性を暴く必要はない。ただ神を信じ、そちらへ向かえばいい。そうすれば推理識別や探求という小難しい手間はない。


が、そうそう素直には神を信じてくれないのが私達のエゴ意識というものだ。エゴは自分自身に執着するものだからだ。エゴ意識への執着があればこそ対象にも執着できる。対象への愛とはつまりエゴの自己愛の投影にすぎない。虚偽の愛だ。


虚偽とて愛ならまだいいがそこには必ず対極の憎しみなども自動的に付随している。大好きだった対象が何かのきっかけでちょっと嫌に感じたり、全く嫌いになったりした体験は誰もが大なり小なりあるだろう。


執着はある対象を強く愛するなら、別の対象にはそれに比例した嫌悪感も感じるものだ。同じ一つの差別意識の二つの側面、コインの表裏。私達のエゴ意識はいとも簡単にその脳内ドラマと役柄に呑まれきってしまうものだ。


そこで自己を見失うことはスピリチュアル的には悪とされる。社会ではそんなもの(欲望を元にした機械的な感情反応)が人間らしさの象徴として語られるが、人の本当の本質はそんなつまらぬものではない。人の本質は機械的なものではない。


執着対象にいくら自己犠牲を払っても(愛を捧げても)それはスピリチュアル的には特に意味はない。単なる自己満足の快楽にすぎない。その点はキリストも語っていた。それはそれで単なるドラマにすぎない。


ただ献身する相手が聖者なら別だ。使徒や如来は確かに表面上は肉の身にある人間だ。しかし彼らは神の代理人という意味では神のアバターでもある。仏陀を筆頭に多くの聖者達は聖者を敬い、仕え、信じることを推奨した。そして聖者に仇なす輩の罪が如何に重いかも説いた。


昔、私はこの部分の教えには関心がなかった。ちょっと意地の悪い解釈だと聖者自身とその教えの権威付けともとれてしまうし、単にまぁモラル的な意味合い以上のものはないと思っていた。


が、実際に聖者達(もしくは純粋な一般信徒)という存在は全くの無信仰者とは存在の次元が異なるのである。自分自身の本質の反映が強い。彼らは全てが神の御元で一つであると知っている(もしくは信じている)からだ。


聖者や信徒に向けたものは何であれそのままキレイに自分に帰ってくることになる。これは基本的に誰や何に対してでも同じではあるが、その比率などが聖者や信徒は強いのである。曇りのない鏡ほど反映を精密に映し返すのと同じだ。


聖者が自分自身やその教えを特別扱いして語っているわけではなく、単純に宇宙における事実なのだ。


誰でも自分の肉体にナイフを刺せばその傷と痛みは直接自分の肉体に生じる。神・アートマンに順応する(もしくは順応しようと真摯に努める)人々は文字通り誰にとっても自分自身そのものなのである。それ故、聖者や信徒、真理などに対する献身や想い、熱望などは単なるエゴの執着とは異なる。


神への信仰は「はい信じます」とうわべで言ったきりでは芽生えない。私達のエゴは基本的に知らぬものを完全に信じるきることはできない。


だから精進の必要がある。気質に合う道をコツコツと歩む必要がある。


バクティに関しては、ひたすら信じるしかない。信仰においては礼拝や祈りが重要となる。無私の奉仕活動もエゴ意識を薄めてゆく。


この記事の初めに自我というものは演技をしているにすぎないと記した。信仰においてはこの自我のキャラ設定や心の形態を信仰者然としたものに変えてゆく必要がある。


初めは心身の表面的な部分だけしか演じれないだろうが、コツコツやってゆくに従いそれはどんどん深まってゆく。初めは単なるうわべの演出だったものがどんどん本気になってゆく。本気になってゆけば気も入ってくる。心の形態が変わってゆく。


それを続けてゆけば心にその形態が定着してゆく。心とは習慣の集大成であるとも言える。いつも文句ばかり言っている人はいつも小言を言っているだろう。心の焦点が不満へ持っていきやすい解釈に定まっているだけだ。


それはそういうプログラミングにすぎない。心に自覚があればそれは矯正してゆける。


礼拝というものはそれが内的なものであれ身体の動作を伴った外的なものであれ心の矯正エクササイズみたいなものだ。しかしそれが単なる矯正エクササイズに終わることはない。


神を信仰してゆくということは神へ近づいてゆくことだ。私達は日常において善い人に近づくと自分も善い影響を与えてもらえる。逆も然り。それは誰にとっても普遍的な事実だ。相手が人間でさえ私達は大きな影響を受ける。


ならばその相手が神であればその影響は尚更だ。神より慈愛深く、慈悲深く、よく赦し、豊潤に与える存在はない。その影響が心にとって悪いわけがない。


神とか薄気味悪い…と感じるのが一般的な人間の反応ではある。しかし宇宙の現れを見れば見るほどちょっと話が出来すぎな感じは否めないだろう。


なんだ雪の結晶とか。なんだあれは。なんであんな絵本に出てきそうな出来すぎた美しい形が自然と形成されるのだ。太陽や月や星達は完全に秩序だった運航にあり、驚くべきことに勝手に動いているときた。いや、なんかおかしいだろ。


昼と夜が交代することにより地球の温度のバランスは保たれ、活動と休息の目安となる。植物には何故か勝手に果物とかいう食べ物が実り、皮剥くとなんか都合よく果実が出てくる。


私はバナナを食べる時、たまに「なんだこれは?」と思う。剥いて下さいと言わんばかりのフサのポッチんとこからペロッと皮剥くと都合よく美味しい果実が出てくるのだよ?わけわかんないだろう。これを奇跡と呼ばずなんと言う?偶然という名の必然だ。必然という名の何か得体の知れない大いなる意志だ。


挙げ出したらキリがなさすぎるのだがこれら全てを「ただの偶然」で片付けるにはあまりにその偶然とやらが多すぎやしないか。偶然がチョロッとあるくらいならまぁわかる。偶然なのだろう。


しかしだ、万物を構成するレゴブロックたる原子とやらが意味もなくペッペッと適当にくっついて適当にホヨホヨ動いているだけではここまでの明白な形と秩序は宇宙に生まれないだろう。


コーランでは「心ある者にとっては自然現象はそのまま神兆である」と記されている。


このようにバクティでは宇宙の現れを見てそこから神を感じることができる。


そしてそのように神を想えば想うほどにそれはより身近に明白に感じられてゆく。それが如何に生ける者共を無償で養ってくれているか、如何に広大で不可解であるか。


そうして神は徐々に単なる想像から実質的な現実へと変わってゆく。


続く